連載小説 秘められた青春 芙蓉と葵 (1)
芙蓉は庭の水仙を切って紙にくるみ、ピンクのリボンをかけて、杉野先生のマンションを訪れた。
マンションに杉野先生がいらっしゃるかどうかは、賭けのようなものだった。日曜日、先生は時々田舎の実家のほうに帰られる。芙蓉は胸をどきどきさせながらインターホーンを押した。
「おお、紺野か」という声が聞こえて、先生はガチャっという音を立ててドアを開けた。
「おお、上がれ、上がれ」と杉野先生は芙蓉の手をつかんで、廊下に引き入れた。
先生にじかに手を触れられたのは初めてだった。突然体が熱くなるような、先生に甘えたくなるような気持が予期もしないのに体の底からこみあげてきた。
芙蓉は女らしい科を作って、
「お邪魔します」と顔を赤らめながら言い、勝手知ったリビングルームのソファーに腰かけた。
「先生、今日は今井君たち、来ていないの」
「うん、今日は誰も来ないなあ。ところで、今日は葵は来なかったのかい?」
「ええ、今日は親戚の法事に出かけるらしくて、来れなかったの」
「そうか」と先生は言っていつものように紅茶を入れてくれた。
「せんせ、庭の水仙が綺麗だったので、持ってきたの。いつものバカラに活けていい?」
「おお、いいよ。いつもありがとう」
杉野先生は、レモンティを二つテーブルの上に置いて、芙蓉と向き合って座った。
「紺野は京都I短大に決めたのだね。もう心は定まったかい?」
「せんせ、私、東京のE短大に行きたいと思うようになったのだけど、受かるかしら?」
「えっ、京都やめたの?どうして?」
「どうしてっていうわけでもないけど、東京は世界でも一番の都市だときいて、自分もそんな大都市に身を置きたくなったの」
「そりゃあ、お前の実力があれば、E短大なんか軽く受かるよ。でも、親は何て言っているの?」
「父は自分も東京の医科大学に行っていたので、反対はしないの。お母さんは、東京に女の子を一人でやるなんて心配だと言っているけど、卒業したらお婿さんを迎えてずっとこの病院を継いでいかなければならないから、ちょっとの間だけでも自由にさせてやりたいという気があって、強く反対できないらしい。私も卒業したら家に帰って花嫁修業すると約束したのよ」
「そうか、親がそう言うのだったら、学力の方は大丈夫。お前、この前の模試よかったじゃないか」
「あれは、まぐれかもしれないわ」
「そんなことないよ、お前なら大丈夫」
「せんせ、ありがとう。嬉しい!」
そう言って芙蓉は紅茶を飲み干し、
「お花活けるわね」と言って立ち上がり、これも勝手知った洗面台の下から花瓶を取り出した。
今日は男子は来てない。ちょっと、期待外れだった。クラスの男子がグループでしょっちゅう先生の所でたむろしている。
その中の柳原君が芙蓉がひそかに心を寄せている男子だった。柳原君は学年でいつもトップに立っている。芙蓉の手の届く存在ではなかった。自然にクラスの学級委員長に押し上げられて、教壇に立ってクラスをまとめることが多かったが、本人はシャイで押しつけがましいところは全然なかった。むしろ控えめ目で、皆に同意を求めようとするような人だった。だから杉野先生のマンションに押しかけている男子仲間の中心的人物は柳原君でなく今井君だった。柳原君は今井君に誘われて来て、グループの中で大人しくいるようなタイプだった。
芙蓉は、柳原君が教壇に立って柔らかい態度で前列の人に「なあ」とかいって、同意を求めているのを見ているうちに、柳原君に恋い焦がれるようになっていた。イケメンではなかったけれど、背丈はあり、いつしか教壇上の柳原君を、じっと見つめるようになっていた。好きだ。けれど、柳原君は十年に一度出るような秀才で、職員室でも話題になっている人である。芙蓉は成績からいうと中ぐらいだと自覚しているし、顔にも自信がなかった。自分から打ち明けることは出来なかった。せめて、今井君たちに混ざって杉野先生の所にたむろしている柳原君を見るために、杉野先生にあこがれている葵を利用して、進学相談を名目に先生をしばしば訪ねて来るぐらいしかできなかった。
男子たちが押しかけているときは、その輪の中に、芙蓉も葵も入れてもらっていたけれど、芙蓉はただにこにこ笑っているだけだった。柳原君を意識している様子を外にはあらわさなかったが、胸の内は柳原君のことでいっぱいだった。芙蓉は柳原君が好きだと葵にも打ち明けなかったが、葵は杉野先生が好きだと芙蓉に打ち明けていた。
芙蓉は男子たちが来ていなかったことに内心がっかりしていたが、水仙を活け、リビングのサイドボードに置いた。
「ああ、きれいだ。気品があるなあ。部屋の雰囲気がいっぺんに変ったよ。紺野は才能があるなあ。王族の部屋のようになったわ」
「せんせ、おだてがうまいわあ」
「おだてでないよ。いつも庭の花持ってきてくれるだろ。活けてくれるたびにそう思うんだもの」
「まあ、せんせ、嬉しい」
芙蓉はのぼせたようにほほを赤らめ、飲み終わったティカップをシンクに運んだ。
「ああ、そのままにしておいてよ。後で片づけたらいいんだから」
「ううん、こんなことぐらいすぐだから」
芙蓉はちゃきちゃきと洗い物を片付けると、カップを布巾で拭いてこれも勝手知ったるサイドボードにしまった。
ハンカチで手をふきながらソファーに戻ると、先生は吸い終わった煙草を灰皿でこすって消した。
「せんせ、柳原君東大の理3受けるってみんなが言っているけど、本当?」
「うん、たぶんそうなると思うな」
「せんせは東京で住んだことある?」
「ないよ。僕は山の中の田舎から市に出てきて、国立大学に入れたのが、いろんな意味で精いっぱいだった。今の君らは恵まれてるよ」
「そうなの?」
そう言いながら、芙蓉は、も少し待っていたら男子が来るのではないかと、先生の所を去りがたく、しばらく雑談をして男子の来るのを待っていた。
先生は、話が途切れた時、
「レコードかけようか?」と問いかけてきた。
「ええ」
杉野先生はショパンのレコードをかけた。
ショパンを聞きながら芙蓉の想いは柳原君へと傾いていった。柳原君は本当に好きだ。目をくるくるさせて、皆から人気があって選ばれた学級委員長であるにもかかわらず、物事を決める時は、威張らないで、むしろ皆に問いかけるように何事を言うにも笑みを欠かさない。
芙蓉は杉野先生がいるにも関わらず、柳原の姿を夢見て、ショパンを聞いていた。そうこうしているうちに、わけのわからない欲望が、身体の内部から湧き上がってきた。柳原君に触れてもらいたという気持ちが体の中心部から湧き上がってきて乳房へと突き抜けていった。芙蓉は目を閉じたり、薄く開けたり、うっとりとして、空想に身をゆだねていった。
ふと気が付くと、杉野先生が芙蓉の座っているソファーの横に腰かけていた。はっと気が付くと、先生はモノも言えないようは早業で、芙蓉の唇をふさいできた。芙蓉は先生を押しのけようとしたが、先生は強い力で抱きしめ、抱いたまま一方の手で下着をはぎ取った。
あっという間の出来事だった。
痛みが走った。
先生もはっと我に返ったのか、すぐ立ち上がると、優しく芙蓉を清め、元の姿に直し、絨毯に頭をつけて、
「ごめん、申し訳ない」と謝った。
芙蓉は、夢遊病者のようにふらふらと立ち上がった。
無意識に玄関の方に行こうとすると、先生は芙蓉の腕をとって引き留めた。
「紺野、このことは誰にも言わないで。僕も誰にも言わないから。紺野は将来医者の婿さんを取って家を継ぐ身なんだから。ごめん、ごめん、申し訳ない。僕は医者でない。お前が好きでもどうにもできない。お父さんやお母さんにこのことは言わないで。もう二度とこんなことはしないから」
芙蓉は、先生が遠くの方で何か言ってるぐらいにしか聞こえなかった。
もうこれで、柳原君と一緒になる資格はないと思うばかりだった。
芙蓉はこの場から離れたく、またよろよろと玄関に向かった。
「なっ、お願いだ。頼む。このこと、なかったことにしてくれな」
先生はまた絨毯に頭をつけた。
芙蓉はその様子を遠くの出来事のように眺めて、返事の言葉が出なかった。
ふっとリビングを見ると、サイドボードの上の水仙が清楚な姿で立っていた。
芙蓉は先生に持っていこうといそいそと水仙を切った時のことを思い返した。それから数時間もたたないうちに自分の世界は思いもよらないことになってしまった。
芙蓉は絨毯に頭を擦り付けている先生に何の感情もわかず、靴を履いた。
「送っていくよ」と先生は言って、芙蓉よりちょっと後ろを歩いて、ずっと家までついてきた。
芙蓉は振り返らず家に入った。
「お帰り」と母は言った。
「杉野先生は、E短大に変えること、どうおっしゃった?」
と、母はリビングから二階に上がろうとする芙蓉を呼び止めた。
芙蓉は仕方なくリビングに入った。
「せんせは、E短大も大丈夫だって」
「そうなの、それはよかったね。お母さんもこれからしっかりしないとね。芙蓉のことばかりが心配にならないように、しっかりするわ」
芙蓉は母に今日のことを打ち明けられなかった。
母は何も気づかず、
「芙蓉の帰り待っていたのよ。ご飯にしましょう」と言って立ち上がった。
父が病院から帰るのはいつも遅いので、二人で食卓を囲むのが常だった。
芙蓉はいつものように明るくふるまって、食事の後片付けも手伝って、二階の自室に入った。
もう自分は柳原君を想う資格がないのだと芙蓉は思った。けがれた人間なのだと思った。一瞬のことだったけれど、その衝撃は強かった。忘れようとしても忘れられなかった。
早く帰るべきだった。柳原君に会いたい一心でせんせの所で粘っていた。そして音楽を聴いて、柳原君のことを想っていると、わけのわからない力が体の奥底から盛り上がってきた。それがせんせに伝わったのかもしれない。せんせだけが悪いとは言えなかったかもしれれない。自分の中に盛り上がってきたものが、せんせを誘いこんだのかもしれない。あの時の自分の気持ちは何だったのか。自分では一度も経験したことのないもやもやしたものが体の中から、湧き上がってきた。そこをせんせに突っ込まれたのだ。自分はあのような気持ちが、自然と盛り上がってきたのを、情欲だとは気づかなかったのだ。ただただ、柳原君が好きでもやもやとしていた。せんせに対してはそんな気持ちはなかったのに。せんせは、私の様子を見て、勘違いし、私を犯したのだ。せんせは、私と結婚出来るはずがないとはっきり思っていたというのに。
ああ私はもう柳原君を恋する資格がなくなったのだ。でも、柳原君が好きだ。好きだ。
芙蓉はその晩寝られなかった。
翌日、母に言い訳が立たないので、学校に出かけた。
柳原君は本当に無邪気だった。芙蓉が自分のことを恋い焦がれているとは思いもよらない。芙蓉はそんなに目立たない子だ。柳原君にとっては、自分は何の存在感もない人間だということは芙蓉には分かっていた。後ろの方の座席にいる芙蓉に意見を聞いたり話しかけたりすることも一度もなかった。芙蓉が今柳原君に適する人間でなくなったと死ぬほどの気持ちで落ち込んでいても、柳原君にとっては、何のかかわりもなかった。芙蓉はただ一人で柳原君に顔向けできないと思い込むだけだった。
昼休み、葵が隣の教室からきて、
「昨日はごめんね。せんせの所、男子は来ていた?」
と聞いた。
「いや男子は誰も来てなかったわ」
と、芙蓉は簡単に答えた。
「せんせ一人だったの?」
「うん」
「私もせんせに進路相談したいのよ。次の日曜日はせんせの所に相談に行きたいの。一緒に行ってね」
芙蓉は、一瞬戸惑ったけれど、いつも一緒にこだわりなく行っているのに、断れば変に思われると思って、
「ええ」と返事していた。
次の日曜日、杉野先生が好きだと芙蓉だけに打ち明けている葵は、タータンチェックのスカートに白い縄網のセーターを着て、ハーフコートを羽織り、芙蓉を迎えに来た。
芙蓉は教室ではせんせに会っているものの、家に行くのはあれから初めてなので、気が重かった。芙蓉はあのことは誰にも言わなかったし、せんせも教室では素知らぬ顔で通しているし、自分もあのことは忘れようとしていた。なんでもなかったのだと思おうとしていた。ましてや先生の好きな葵には絶対に気取られてはいけなかった。
葵がインターホーンを押すと、先生が出てきた。
「おお、高橋が来たか。あがれあがれ」と先生は屈託なさそうに言った。
奥から男子の騒いでいる声が聞こえてきた。
芙蓉は一瞬どきっとなって、靴を脱ぐのを忘れていた。
「おお、紺野もはよ上がれ」
と先生は、芙蓉に向かって何のよどみもなく言った。
先生はあのことをなかったことにしたいのだということがわかる言い方だった。
芙蓉も男子の中に柳原がいることを認め、
「はい」と素直に言って靴を脱いだ。
男子五人のうち三人が、ソファーからあふれて絨毯にじかに座っていた。葵と芙蓉が来ると男子は絨毯に下り、ソファーを二人に譲ろうとした。芙蓉は慌てて、いえいえ私たちはここがいいですと部屋の隅に座った。ソファーはあのことを思い出す。それは、きつかった。
「高橋も紺野も、紅茶でいいかい」と、何のこだわりもなくいつもと同じ調子で先生は聞いた。
「せんせ、私がやります」と、葵は立ち上がって行った。芙蓉はいつもなら一緒に立っていくのに、なぜか体が軽く動かなかくて、座ったままでいた。
二人が入ってきた時には、騒がしく話していたのに、二人が入っていくと、男子はいやに静かになった。
葵がみんなのお茶を入れなおして持ってきた。
杉野先生は、
「うちのクラスは大体志望校が決まって、安心だわ」といった。
「せんせ」とその時、葵が切り出した。
「せんせ、私、薬学やめて、やっぱり学芸学部に行くことに決めました。私小さい子好きだから、小学校の先生になりたいんだわ」
「ええっ!なに!お前の力なら、薬学、受かるぞ」
「でもあたし、先生になりたいんだもの」
葵は父を戦争で失い、手に職のない母が再婚して気難しいまま父に陰で泣きながらつかえているのを見て、一生やっていける公務員の道を選ぼうと思っていると言っていた。自分等の気持をよくわかってくれる杉野先生に憧れ、将来先生と結婚出来ればこれほど嬉しいことはないという夢を語っていた。先生は三十歳だった。
芙蓉は葵にその気持ちを打ち明けられていただけに、つらかった。親友を裏切っているような気持になった。でも、これはつらいけれど誰にも言ってはならないことだと、自分に言い聞かせた。
部屋の隅から、柳原君の屈託のない笑顔を盗み見ては胸がきゅっとなった。杉野先生は、あのことはなかったようにいつものように、紺野、紺野と平気で呼んだ。
芙蓉もいつもと変わらないように心がけて、「はい、はい」と答えた。
葵は、杉野先生に学芸学部に受かるかどうか何度も聞いていた。
先生は太鼓判を押したし、今井君たち男子も「高橋が通らなくて誰が通るんだ」と言って先生の証言を裏付けた。
葵は嬉しそうで、皆のティカップを集めてキッチンに運んだ。芙蓉も立って行った。
葵は、男子が先生のうちに来ている時は、男子に気遣って適当に切り上げる。芙蓉と葵だけの時は、葵は先生のそばから離れられないらしくなかなか帰ろうとしない。芙蓉はいつもは柳原君を見てたくて、男子の来ている時は、帰りたくなかった。けれど、今日は柳原君を見ているとつらくなってきた。どんなに恋い焦がれても、もう柳原君にふさわしくない穢れた人間になってしまったのだ。
芙蓉は、自ら葵を促して帰途についた。
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