連載小説 秘められた青春 昭和の少女 芙蓉と葵 (3)
この小説はフィクションです
はじめは緊張していた短大にもだんだん慣れてきた。高校までは同じ教室にいれば、先生が入れ代
わり立ち代わり向こうからやってきてくれる。大学では自分の専攻した科目のある教室に自分から
移動していく。クラス担任の先生もいないので、初めは頼りなかったが、月日を経るごとにその自
由さが芙蓉を大胆にしていった。
気の合った仲間で「今日は私設祭日にしよう」などと言って、銀座「みゆき座」に行って名画を
見る。終わったら喫茶店に寄ってケーキを食べておしゃべりに花を咲かす。そんな時の案内役は東
京の子で、ぬくぬくと両親に守られてお小遣いも豊かな、芙蓉から見ると何の苦労もなさそうな子
だった。芙蓉も一緒になってはしゃぎながら、ふっと、この子たちは、何の屈託もないのだろうな
あ、と我に返ったりする。でも、その子らと遊んでいる時は、過去の汚点から解放されていた。
同じ下宿の鈴原美鈴は、二回生で卒論もあり、新潟の長岡の裕福な農家出身で、堅いぐらいまじ
めな性格の上に、英語をしゃべれるようになり、イギリスに行ってみたいという夢があり、ひまが
あればNHKの講座を聞いていた。
大家さんは、月に一度三人の下宿生をお茶に呼んでくれた。響子は芙蓉と美鈴にボーイフレンド
が来ていることを内緒にしてねと頼んでくる。美鈴も芙蓉も異存はなく素直に響子の願いを受け入れ
た。
響子は夕方になると念入りに化粧をして長い髪をカールし、真っ赤なハイヒールを履いて出かける。芙
蓉はそれを見て自分が田舎者だと思い知らされた。化粧に二時間近く時間をかけている響子は、きれいだ
った。いつもきれいにして、会社員のボーイフレンドの退社時間に向けて出かけているようだった。深
夜、酔っぱらったような二人のひそひそ声が階段を上がってくる。ドアの閉まる音がして、かすかに二人
の吐息が聞こえてくる。
芙蓉は柳原君を想った。今響子のように肌近くに柳原君を感じたい。しかしやはり自分はもう柳原君を
想う資格さえないのだと思う。
夏休み家に帰った芙蓉の所に、葵が真っ先にたずねてきた。葵の大学生活は順調そうだった。ワンゲル
部に入り、近くの山をつぎつぎと男女七人の部員で登っているらしい。
「みんな素晴らしい山男よ。受験勉強ばかりしていた高校時代を思うと、もう世界が変わっちゃった」
「へえー、目から鱗!私は女子大だから女ばかりで固まって遊んでる。うらやましい気もするわ」
「芙蓉ちゃんは、未来は病院の奥様だもの。あらくれ男と知り合いにならなくてもいいのだわ」
「あらくれ男って?」
「いやいや、勢いでそんな言葉になったけど、そんなのじゃないよ。みんな紳士的よ」
「そう、いいわね」
不意にあの時の衝撃と痛みが体を突き抜けていった。
けれど、芙蓉は何事もなかったように葵の前でじっとしていた。
「芙蓉ちゃん、あさってね、今井君たちがせんせの所に集まるらしいのよ。みんな夏休みで帰っているっ
て。久しぶりだから行かない?もうめったに全員で会えないもの」
芙蓉は、行くとも行かないとも言わず、身じろぎもしなかった。
葵は不思議に思い、
「何か用でもある?」と聞いた。
芙蓉は慌てて、「ううん、行くわ」と言った。
今あっておかないと、もう永久に柳原君に逢えないかもしれない。
杉野先生のことはもうこだわらなくてもいいのだ。先生自身があのようなすげない態度をとっているのだ
から、なかったことにしてあげればいいのだ。
芙蓉の柳原君への想いは、何ものにも代えがたかった。
芙蓉はその日花柄のプリント地のワンピースを着ていった。芙蓉は響子の真似をして、突然化粧に時間を
かけ香水の香りをほんのり漂わせた。花柄のワンピースは、ノースリーブで谷間が見えそうなほど胸のあ
いたものを着ていった。
葵はジーパンにTシャツで、ノーメイクだった。
すでに男子たちは来ていて、話がはずんでいるところだった。
「おっ!久しぶり!」と今井君が二人に声をかけた。
「今井君、大阪はどう?」と葵が聞いた。
「いいよ、大阪は。楽しい所だわ」と、今井君は言って、
「紺野は、東京はどうなんだ」と芙蓉に話を向けてきた。
「東京はやっぱりすごいと思うわ。自由よ。コンサートでもなんでもともかく一流のものが見れるもの」
「一遍行ってみたいな。行ったら泊めてくれる?」
「無理よ。私の下宿は男子禁制」
芙蓉が一番話しかけてもらいたかったのは、柳原君だった。
柳原君は、ただにこにこと笑って、芙蓉を見ていた。
杉野先生は緊張した面持ちで目を宙に浮かせていた。
芙蓉は勇気を出して言ってみた。
「ねえ、柳原君の京大はどんな感じなの?」
「そんなことお前わかってるじゃないか。超秀才の集まりだから、奇人変人の集まりよ。なあ」と今井君は柳原君に向かって言って一人で悦に入っていた。
「いやいや、そんなことはないよ。普通だよ。でも、びっくりするような頭のいい奴がいっぱいいるわ」
「そうなの、素晴らしいわね」と言って、芙蓉は顔を赤らめた。
初めて口が利けたのだ。せんせとは何もなかったのだ。せんせも忘れてほしい。忘れるというよりも、
誰にも口外しないというよりも、そもそも何もなかっだ。そうでないと、自分の気持ちを柳原君に打ち明
けれない。
芙蓉は次第に明るさをなくしていった。
葵がワンゲルの話をとうとうと語っていて、話題がその方に向いたのが救いだった。
柳原君とは、それ以上の会話はなく、葵に促されて家に帰った。柳原君は高校時代と何の変りもなく無口
でニコニコしている。服装も変わっていなかった。芙蓉は、柳原君の気を引きたいばかりに、響子の真似
をして、露出いっぱいの洋服で行ったことを恥じた。柳原君は外見などどうでもいいのかも知れない。そ
れよりも、頭のいい女の子が好きなのかもしれない、という気がした。しかし、柳原君が好きだという気
持ちはますますつのり、どうすることも出来なかった。柳原君が、早い目に京都に戻ったと聞いたとき、
芙蓉も家でいる理由が薄れて、東京に帰った。
(4)
帰ってみると、響子がもう東京に帰っていた。響子は北陸のホテルの娘だった。景気がいいのか、いつ
でも送金を頼べば、追加の金子が送られてくるということで、はやりのブランド物のバッグや、靴をたく
さん持っていた。就職も必要ないのだけれど、ボーイフレンドと離れたくないので、デパートに就職を
決めていた。
「ねえ」と響子は、まだ二人だけしか帰ってきていないことをいいことに、台所の椅子に腰かけて、芙蓉
に語り掛けた。
芙蓉は沸かしていたやかんのガスを切り、もう一つの椅子に腰かけた。
「芙蓉さんは、まだボーイフレンドいないの?」
「いないわ。見ての通りでございます」とおどけて見せた。
「早い目に帰ってきたから、いい人が出来たのかと思ったわ」
「いいえ」と言いながら、柳原君と対で話し合うこともできないことを寂しく感じた。
「じゃあ、まだ、男性としたこともないの?」
芙蓉は、とっさに、
「ええ」と答えて、急に体の中心が痛むのを感じた。
やっぱりあれは、男性と交わったということになる。生まれたままの何も知らない無垢な体ではないのだ。
「芙蓉さん、早くボーイフレンドつくりなさい。男性を知るってことは、この上もない快楽よ」
「はあ」という芙蓉の顔は上気してきた。
三日にあげず来るボーイブレンドの低い声の睦言は、もう声すら覚えてしまった。
聞き耳を立てているわけでもないのに、その声は芙蓉の耳に刻まれていた。
響子のあえぐ声もかすかな音楽のように、夜のしじまに忍び込んでくる。やはりそれは素晴らしいこと
に違いない。芙蓉は、せんせとの何の前ぶれもない、堅く恐ろしいものに、防ぐ暇もなく貫かれた記憶か
ら自由になれなかった。そして、そのあとのせんせの固い態度も、それがいいんだとわかりながらも、納
得できなかった。
芙蓉は、響子は本当に幸せな人生を享受していると感じた。
それに比べると、自分の青春は悲しい。大好きな柳原君にも負い目から近づくことができないのだ。
芙蓉は、沸かしかけたお湯をもう一度ガスで沸かし、響子に紅茶を出し、
「響子さん、いろいろ教えてくださいね」
と口走り、思ってもいない言葉が自分の口からほとばしり出たのを、自分で驚いていた。
大家さんが二人ではお淋しいでしょうと言って、お茶しにいらっしゃいと誘ってくれた。
「あなたたちは、女の子でも東京にまで出して学問させてくれるご両親がいて、また、戦後の民主主義の
時代に大学に行く年齢になってお幸せよ。私なんか、お嫁に行くことだけしか道はなくて、いい縁談が来
たからと女学校も辞めさせられて、嫁いだと思ったら、夫
は戦争に。この家を、焼け野原に立ててもらって、お姑さんたちが亡くなり収入がなくなったけど、その
あとを皆さんに借りてもらってようやく生きているわ。それを思うと皆しっかり勉強して自分で生きてい
くだけのお金を稼げるようにしてね。応援するわ」
「はい、おばちゃま。頑張りますね」と響子が言った。
芙蓉はびっくりした。夜ごとボーイフレンドといちゃついている響子は仕事する人からは一番遠い人だ
と何となく感じていた。しかし、それはそれこれはこれと分けて考えるのが正しいのかもしれないと思っ
た。芙蓉は、響子は現代のトップをいっている女性かもしれないと思った。
美鈴さんが長岡からお土産を持って帰ってきた。芙蓉は久しぶりに部屋に上がってもらって話を聞いた。
「夏休み中、ずっと英語の本を読んでいたんよ。私はイギリスに行けるようになりたいの。イギリスって
文明の進んだ国よね。行ってみたくない?」
「私は外国のことなんか考えたこともなかったわ。日本のことしか知らなかったし、それに、なんかわか
らないけど、女一人では危ないようで恐ろしい気がするわ」
「両親もそういうの。結婚してから二人で行ったらって。でも私、男の人に全然興味ないのよ」
「ええ?今まで好きな人なかったの?」
「うん、ないわね」
芙蓉は、響子も葵も自分も、男性にとらわれているのに、美鈴のようにさっぱりと生きれる人がいるの
に驚いた。
芙蓉は、浮かれた連中と、やれ銀巴里だ、やれジャズ喫茶だと、せんせとのことを忘れたいばかりに遊
び歩いた。
東京生活も一年を過ぎ、二回生の秋になって卒論に取り掛かろうという時に、葵から手紙が来た。
芙蓉ちゃん私本当に嬉しいことがあったの。大学の方は順調に勉強が進んでいるわ。わからないことが
出てきた時は、ずっと杉野せんせの所に行って、教えていただいたり、相談に乗ってもらったりしていた
のよ。芙蓉ちゃんに告白していた通り、私高校三年生の時からずっと杉野せんせが好きだったのよ。憧れ
ていたわ。でも、せんせの方は私をずっと女と感じてくれなかったの。私、誰も来ていないせんと二人だ
けの時には、暗くなるまでせんせのそばを離れなかった。でも、せんせは帰れともいわないけど、私の期
待には無関心な様だった。
私、もう我慢できなくなって、自分からせんせのソファーに移ってせんせにもたれたの。
せんせはようやくわかってくださったのか・・・。私嬉しかった。天にも昇るような喜びに満たされた
わ。私せんせに結婚してとささやいたのよ。せんせは分かってくださったのか、大きく頷いて下さった。
誰にもこの喜びを言えないけど、芙蓉ちゃんだけは喜んでくれると思って。
ごめんね。こんなおのろけみたいなこと言って。
芙蓉は葵からのこの手紙を読んで目の前が真っ暗になった。あの時のことが身に迫ってきた。葵にも同
じことをしてあげたのね。私にしたことは覚えているの?葵には結婚の約束してあげたのね。寂しい!悔
しい!芙蓉は葵の手紙を放り出して、机に突っ伏して泣いた。泣いているうちに、芙蓉はあれはどうして
もなかったことにしなければいけないことなのに、自分は何を思っているのだろうと気が付いた。
芙蓉はすぐにペンをとって返事を書いた。
葵ちゃん、おめでとう!せんせと結ばれたのね。それは記念する日だわ。2年もよく辛抱できたわね。で
も、かいがったじゃない。せんせと結婚できるんだもの。おめでとう!心からおめでとう!
芙蓉は簡単にしたためて、返事を送った。
そしてせんせに処女を奪われたことは、ますます口外してはならないと思った。
芙蓉は歯を食いしばって、卒業論文を書き上げた。
四月から駅ビルにある旅行会社に就職が決まっていた。両親は、早く帰ってきて医者の結婚相手が見つ
かりそうなので、お茶やお花を習い花嫁修業をしてもらいたいと望んでいた。
芙蓉はせんせのことが割り切れず、事情を知らない葵がせんせとの情交を、多分楽しそうに打ち明けて
くれるだろうと思うと、まだ故郷に帰る気になれないのだった。
響子は4月からデパートに就職することに決まっていた。
美鈴は短大卒業後、もう子供英会話教室で働いていた。
三人がお休みで階下の台所にいて、久々にしゃべっていると、大家さんが現れて、お茶にいらっしゃい
と誘ってくれた。
「今日はたまの日曜なのに、圭太はお仕事よ。手持無沙汰なの。お二人とも卒業おめでとう。お祝いにケ
ーキ買ってきたのよ。召し上がって」
「おばちゃま、ありがとうございます。どうかこうか卒業できましたのよ」と響子が愛想よく言った。
「芙蓉さんも、いいところに就職出来てよかったわね」
「はい、おばちゃまの薫陶のおかげです」
「いやあだ、薫陶なんて。冷やかさないでよ。恥ずかしいわ」
「すみません」と芙蓉が頭を下げると、みんなは笑った。
ショートケーキを4人の女性でいただいた。
響子はふと、リビングにパープル色の綺麗なワンピースが掛かっているの見て、
「おばちゃま、きれいなワンピース、どこかお出かけ?」と尋ねた。
「おばちゃまは、高英男のコンサートに行くの。今度の日曜にね」と言って、頬を赤らめた。芙蓉から見
ると、大家さんはすごく年で、もう女として感じなく、「おばちゃま、おばちゃま」と言っておばあちゃ
まのように感じていたが、頬を赤らめる大家さんに初めて女を感じた。
響子はボ-イフレンドに会いに行く時間が気になったのか、二人を促して母屋に引き上げた。
その夜、ふと目が覚めると、響子の部屋から英語混じりに話す男の声が聞こえてきた。響子も英語でし
ゃっべったりしていた。三十分もすると、まったく声が聞こえなくなった。
翌朝芙蓉がミルクを温めてミルクパンを持って台所を出てくると、響子と外人の若者が二階から降りて
きた。
正面からばったり会ったので、響子はうろたえた様子で、「トムです」と紹介した。芙蓉はその容姿の
美しさに打たれて、しどろもどろに「紺野芙蓉です。よろしくお願いいたします」と片言の英語で言っ
た。
二階に戻ってきた響子は、芙蓉の部屋をノックした。
「芙蓉さん、ちょっと入っていい?」
「はいどうぞ」と言って芙蓉は響子を迎え入れた。
「さっきの子はね、英会話学校の講師なのよ。あと六か月で契約が終わってアメリカに帰っちゃうの」
「響子さん、今までの方は?どうなさったの?」
「辞令が下りて、北海道に行ってしまったのよ。寂しいの、私」
「まあ、響子さんはついて行かないの?」
「せっかく就職が決まったし、北海道のような寒いところは嫌だわ。もう少し都会生活を満喫したいの」
「私は、あの方と結婚するとばかり思っていたのよ」
「結婚はもう少し先でいいわ」
「響子さんて進んでる。うらやましいわ」
「そうかしら。私はその時その時の自分の気持ちに忠実に生きているだけよ」
「そういう風に言い切れる響子さんは素晴らしいわ」
「ねえ、これからトムがちょくちょく来ると思うけど、よろしくね」
「はい」
響子は安心したように自室に帰って行った。
芙蓉は響子の割り切った生き方を見て影響を受け始めていた。もともとかけ離れて優秀な柳原君に自分
から好きだと言えなくて、何とか私というものの存在だけでも気づいてほしいと、先生の所に行っていた
のだけど、先生に奪われてしまって、ますます柳原君は彼方の人になってしまった。柳原君が好きだとい
う気持ちは変わりなく、苦しいぐらいに燃えさかっているのだけれど、もうどうすることもできないのだ
と観念するのだった。
幸い裕福な山の手のお嬢さんたちと、屈託のない遊びをしていると、その時だけでもせんせとのことを
忘れられた。
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