連載小説 秘められた青春 昭和の少女 芙蓉と葵 (7)

          この小説はフィクションです


(7)

 芙蓉は勤務先のみんなに惜しまれながら故郷に帰った。父母はようやく都会に見切りをつけて帰ってき

てくれたと大喜びだった。

「あなたのいなかった四年間、火が消えたように寂しかったわ。お父さんも帰ってきてからレコードをか

けて寂しそうだった。帰る決心をしてくれてありがとう」と母は言った。

そしてお茶とお花の先生の所に習いにやらせた。

「紺野病院のお嬢ちゃんなのね。東京から帰ってらっしゃったのね」とどこに行っても可愛がられた。愛

欲におぼれていた東京の生活は誰にも感づかれなかった。

 葵は卒業して、市の小学校の先生になっていた。着々と自分の思い描いた道をそれず、努力して、なり

たい学校の先生になっていた。それは見事な生き方だった。せんせとの仲はずっと切れ目なく続いてい

て、とても幸せだわと言う。せんせが自分の欲望を満たしてくれる時の行為の優しさを親しい芙蓉にだけ

のろけた。それを聞く度に、古傷が痛んだ。あの時の花瓶に挿した水仙の清楚な姿が目に浮かぶ。十八の

誕生日を祝ったばかりだった。せんせに犯されていなかったら、柳原君に接近できたかもわからない。響

子の行為に興奮してトムや修太朗との愛欲の道にそれたりはせず、ひたすら清らかな体と心のまま、柳原

君に対して自分を貶めることなく、あこがれを清らかに抱き続けることができただろう。柳原君が才女と

仲良くなっていて、自分の入りこむ余地がないとしても、清い体で思い続けることと、処女をなくした肉

体で思い続けることとはわけがちがうと、悔やんでいた。でも、それはもう忘れなければならないことな

のだ。せんせと自分だけしか知らず、母も葵もそんなことはつゆ思わないことだったのだ。それをないこ

とに出来たらどんなにか安楽だろう。でも、せんせは知っている。

 芙蓉は間違った道に足を踏み入れてしまったと思った。その道は極彩色の豊かな道だったけれど、これ

からは間違わずに正しく暮らそうと思った。

 そんな時、父が芙蓉に縁談を持ってきた。同じ医大で学んだ人の甥で、家業のパン屋は兄が継ぐので、

弟の医者の方は、婿養子に行ってもいいと言っている人だった。

「もう三十七歳でお前と一回りも違うのが気にかかるがどんなものだろう」と父は言う。母は養子に来て

くれるというだけで気に入って、

「それぐらいの年の離れた夫婦は沢山いますよ。お父さんと私だって九つ違っているけど、うまくいって

ますもの」と言って、急いで芙蓉の見合い写真を撮らせた。

 お相手の方の小さいスナップ写真を見せてもらい、芙蓉はそれでいいと思った。

 双方が気に入って、話が決まると噂は町中に広がった。その時葵が飛んできて、

「芙蓉ちゃんその方の噂知ってる?何人も看護婦さんに手を付けている人らしいよ。噂では子供までおろ

させたと言うわよ」と忠言してくれた。

「へえ!そんな噂知らなかった。本当だろうか?」

「火のない所に煙は立たないって言うじゃない。よく考えた方がいいわよ」

芙蓉は葵の言葉にうなずきつつ、自分の過去を思うと引け目を感じ、遊んでいてくれた方の方がいいと思

うのだった。

 

芙蓉は、ともかく夫を助けていい妻になり、父のため先祖のため病院を大きくさせようと思った。

 加賀富雄さんという方と、芙蓉は数回デートした。さっぱりした気性の人だった。芙蓉は一も二もなくお

話をお受けした。相手の方も芙蓉を気に入っていた。

 結婚式は新郎の少しでも早くという希望で、暑い盛りではあるけれど、八月十日になった。富雄のお誕

生日が八月二十日なので、一つでも若いうちに式を挙げたいと言った。芙蓉は自分の友達の手前、一歳で

も若くと気づかってくれてたのだと思った。

 父は芙蓉のためにマンションを借りてくれた。下見に行ってインテリアをあれこれ考えていた時に、ふ

っとせんせとのことが目に浮かんで消えた。一瞬痛みが走った。芙蓉は大きく首を振って、その影を振り

払った。

 花嫁支度は着々と進んでいた。そんな時葵が芙蓉を海に行こうと誘ってきた。とても嬉しいことがある

ので、聞いてほしいと言う。芙蓉には大体想像がついたが、葵の希望を断れなかった。

 葵と芙蓉は麦藁帽をかぶって砂浜に座っていた。打ち寄せる波が心地よい音を立てていた。

「ねえ芙蓉ちゃん、私もね、せんせが結婚してくださることになったのよ、お式の日も決めてくださった

からもう安心だわ」

「まあ、よかったわね。あなたは本当に幸せは人だわ」

「そうよね。ずっと思い詰めていて、せんせがなかなか私を認めてくださらなくって、つらかったけど、

せんせがようやく私の方を向いて下さってからは、ずっと優しくしてくださるのよ。ほんとに途切れるこ

となく愛してくださるの」

「幸せね」と芙蓉はかみしめるように言った。

芙蓉は葵のことを本当に幸せと思っていた。好きな人を待って待って、その好きな人に清らかな体をささ

げ、ほかの誰をも知らず好きな人から手ほどきを受けて開花していってる。やがて赤子が生まれても、葵

の愛はせんせから離れることはないだろう。赤子を抱きながら、葵の目はいつもせんせに注がれている。

そんな幸せがあるだろうか。

 せんせとのことに一生こだわり、誰にも言えず、せんせがどうしてあの時そんなことをしたのか、本当

の心を言ってくれることもなく、「申し訳ない」と土下座したのをどう考えたらいいのかも分からない。

自分にも非があったと思うこともあるので、せんせを恨む気はなかった。ただせんせの気持ちがわからず

に知りたいと思うだけだった。芙蓉はあの時もただ柳原君に心身とらわれていただけだった。もしせんせ

のことが自分も好きだったら、葵の話を聞いて葵を嫉妬しただろう。けれども芙蓉には、葵に対して秘密

を持っているうしろめたさはあったけれども、嫉妬することはなかった。

「それからねえ、びっくりしないでよ。せんせはこの夏に東京の教員試験を受けて東京に出ていくんだっ

て。私にも東京の小学校の教員試験を受けるように言うの。秋に結婚式をして、せんせのマンションで暮

らして、来年の春には東京へって」

「まあ」

「でしょ。どうして?ここで今まで通りに教員していてもいけるのに、なんで東京に移住するのかさっぱ

りわからないのよ。聞いてもあいまいなの。東京で一段上の教員を目指すっていうけれど、高校のせんせ

でいいと思うのよ、私はね。でもねえ、せんせがそういうのであれば、せんせの希望をかなえてあげなけ

ればね。私はどんなことでもせんせについて行くの」

「いいわねえ」と芙蓉は本心から葵の気持ちを讃えた。

一方せんせが東京に行くのは、自分がせんせの近くに帰ってきたからかもしれないと思った。せんせも決

してあのことを忘れていないのだ。

 芙蓉はもうこだわることはやめようと思った。

 打ち寄せる波のざあーという音に混じって、貝を拾う子供たちのざわめきが聞こえた。葵の麦藁帽の水

色のリボンが海風にひらひらと揺れていた。

 家に帰ると、母は結婚式に招待する名簿づくりに一生懸命だった。

「あら、芙蓉、いいところに帰ってきてくれたわ。芙蓉のお友達は誰々よぶの?」

「葵ちゃんと今井君でいいわ」

「杉野先生は?」

「せんせはいいわ」

「先生もお呼びしたら?先生のおかげで大学にいけて、加賀さんもいい大学だって認めてくださったの

よ」

「どうしようかなあ」

 芙蓉は今聞いたせんせと葵の結婚を考えた。葵だけ呼んでせんせを呼ばないのは葵にとって不自然かな

あと思った。

「お母さんが呼んだ方がいいと思ったら、入れておいて」

「呼んだ方がいいと思うの、入れておくわね」

「そうしておいてね」

 芙蓉も母の名簿づくりの手伝いをした。

 

               (9)

 

 結婚式の日が来た。

 結婚式は町で一番の由緒あるホテルで行われた。そのホテルは昭和天皇が戦後全国を回られたとき、お

泊りになったホテルだった。

 芙蓉の結婚式の招待客は五十人を超えていた。

 葵も今井君もせんせもいた。

 町の名士の居並ぶ前で、芙蓉は新郎と壇上に座っていた。

 芙蓉は、紺野病院を盛り上げていくことを一心に考えていた。この人の、いい妻になり、いい助手にな

って先祖代々の紺野家を盛り立てていくのが使命だと思った。芙蓉は隣にいる富男の横顔を見上げ、決心

を新たにしていた。

 華やかな打掛をまとった芙蓉から、もうすでに堂々とした若奥様の風格がにじみ出ていた。

 芙蓉から立ち昇るオーラは、会場をうめつくし、名士たちは我を忘れて箸の手を止めて芙蓉に見とれて

いた。

 芙蓉は遠くの方で豆粒のように小さいせんせを見つけた。

 式が終わると、芙蓉と富男は皆に見送らて、二人にとって未知の世界、新婚旅行へと旅立っていった。

(完了) 

 


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