連載小説 秘められた青春 昭和の少女 芙蓉と葵 (6)
この小説はフィクションです
(7)
年を越し春が来た。響子は結婚して出て行った。美鈴もアイルランドに行く準備で、長岡の実家に帰っ
た。学生生活の延長だった女の園の下宿は解体した。
芙蓉はまだ結婚できず、一DKのマンションに移った。これからは一人でしっかりと生きていかなければ
ならないと決心していた。会社の窓口業務には慣れ、芙蓉を名指して来るお客さんも出てきた。芙蓉にこ
っそりと外国土産を渡してくれる人もあった。芙蓉はどのお客さんにも愛想よくにっこりと笑って接し
た。
勤務を終えて夜マンションで一人でいると、寂しさがこみあげてくる。どうしても忘れられない柳原
君。柳原君は殿上人で、才能のない自分は自分を卑下していて、決して自分から自分の気持ちを打ち明け
る勇気はなかった。心は枯れ木のようだったのに、体は柳原君に向かって、自分では気づかないうちに、
全開していたのだ。せんせは私の自覚のない欲望する姿に気づいて、せんせ自身も欲望の極に達してしま
ったのだ。それにしてもせんせは厳しすぎる。ただ一度で、あとは取り付く島もなく何もなかったように
振舞うのだから。葵が私の親友であったのを知っているはずなのに、葵には繰り返し優しくしてあげて、
結婚まで約束している。せんせの気持ちが分からい。私が家の病院を受け継がなければならない運命にあ
る人だからか。親戚一同が町の名士と言われるからか。
柳原君が才女と恋に落ちているという噂を聞いて、気持ちが折れてしまった。そして、葵が言ってくる
長ーく天上をさ迷う有頂天の喜びも知りたくて、また響子の毎夜のあえぎにも好奇心いっぱいで、自分の
方からトムに身をまかせてしまった。こんなことを経験してしまった自分は、柳原君にはふさわしくない
と思い続けた。
芙蓉には、柳原君が自分のことを何とも思っていないということもわかっていた。それでもなお、柳原君のことを想い続けた。
その柳原君が才女と一緒にアメリカの大学に留学するらしいという噂が、葵を通して聞こえてきた。芙
蓉は目の前が真っ暗になった。
葵は芙蓉が柳原君を好きだということを知らなかった。高校でも数年に一度排出するかしないかの秀才
と言われている柳原君については、誰もが彼の一挙手一投足を注目して噂にした。芙蓉は過去に起きた二
度の過ちで、柳原君にはどうあがいても近づけないと思っていたのに、才女とのアメリカ留学の話を聞い
て心がくず折れてしまった。
しかし、芙蓉は職場では明るくふるまった。男性の上司には気に入られ、女性の同僚にも仕事をどんど
んこなすので重宝がられた。お客さんも気軽さから芙蓉のいる窓口に寄ってきた。
芙蓉が短大を卒業して勤め始めた時から、月に一度芙蓉の窓口にきて函館行きの航空券を買っていくサ
ラリーマンがいた。丸の内のオフィスに勤めている人らしかった。滝沢さんという人だった。上司は前か
らチケットをよく買いに来ている滝沢さんと顔馴染みだった。
ちょうど芙蓉が下宿を出てマンションに越したころ、滝沢さんがチケット代を払うお札の上に、そっと
一枚の白い紙を置いた。それでニコッと笑って、白い紙を見て目で合図してきた。芙蓉は慌てて目を落と
した。紙に「読んでね」とだけ書いてあった。芙蓉は慌てて事務服のポケットに紙を隠した。
マンションに帰って急いで読むと、食事にお誘いしますと書かれていた。来週の土曜日の七時に銀座で
お待ちしていますと書いて、待ち合わせ場所を詳しく地図入りで書いていた。そして、自分は大手の商事
会社に勤めていること、大学はK大を出て年齢は三十歳、函館の出身と書いてあった。
芙蓉はいつも清潔感があっていい人だと思っていたけど、過去のことがわだかまっていて返事ができな
かった。柳原君にまだとらわれていて、心が動かなかった。滝沢さんは、それからも何度か白い紙をお札
の上に置いていた。芙蓉は滝沢さんを振り続けていたが、柳原君が才女と一緒にアメリカに留学すると聞
いて、わずかな期待も失ってしまい、心が真っ暗な闇に閉ざされた。その時、微かな光が滝沢さんからさ
すような気がして、芙蓉は返事をずっとしなかったのに、「お誘いありがとうございます」と小さい白い
紙に書いて、お釣りのお札の上に置いた。
会ってみると滝沢さんはスマートな人だった。銀座の一流のフランス料理店に案内してくれた。
「紺野さんが返事をくれないので僕はがっかりしていたよ。もう一度、誘ってダメだったらあきらめよう
と思っていたんだ」と滝沢は言った。
芙蓉は食事をいただきながら、上目使いに滝沢を見上げながら、
「ごめんなさい。誘っていただいて嬉しかったのですけど、私みたいなもの、会ってみてがっかりされる
んじゃないかと思って、お返事ができなかったのですわ」
「こっちは恋人がもういるのかと思ったよ」
「いいえ、そんなもの、私みたいなものにいませんわ」
「それは僕にとっては有難いことだなあ」
そう言って滝沢はワインを勧めた。
芙蓉は勧められるままに飲んだ。
少し酔が回ってきた。
「ねえ、滝沢さんは函館出身なのね。私まだ行ったことがないの。函館ってどんな所?」
「いい所だよ。魚介類がおいしいし、町はエキゾチックな感じが何となくするし、函館山の夜景ね。きれ
いだよ。世界三大夜景って言われるほどだもの。今度連れて行ってあげる」
「ほんと?ありがとう。嬉しいわ」
芙蓉は上気したまなざしで滝沢を見つめた。滝沢の顔を正面からまじまじと見つめたのは初めてだっ
た。色が白く眉毛は濃く、若さが内面からあふれ出ていて、普段の印象よりずっとハンサムだった。その
時ふと滝沢の顔に、トムが重なった。一瞬、トムが教えてくれた恍惚がよみがえり、芙蓉の内部が震え
た。
「銀座をぶらぶらしてみようか」と滝沢が誘った。
「ええ、いいわねえ」と芙蓉は応じて二人は肩を並べて銀座を歩いた。
「あら、滝沢さん、今日は満月よ。見て!」と言って芙蓉は空を指さした。
「ほんとだ、綺麗だね。いい夜だ」と言って滝沢は風に向かって面を上げ、悠々と歩いた。
十一月初旬の暖かい夜だった。柳は揺れていた。芙蓉の長い髪も揺れている。滝沢がそれとなく手をつな
いできた。芙蓉の気持ちは最高潮に高まってきた。
「マンションまで送っていくよ」と言って、滝沢はタクシーに向かって手を挙げた。
タクシーを降りると部屋まで送っていくと滝沢が言った。芙蓉は軽く頷き狭い部屋に案内した。
二人は何も言わなかった。コートを着たまま長い間抱き合っていた。芙蓉の頭の中に柳原君が現れた。
柳原君も才女ときっとこうしているんだわ。柳原君に操をたてて身動きの取れなかった長い時間を、もう
捨てよう。すべてを忘れて自分の欲望のまま生きよう。響子のように!葵のように!
芙蓉はコートを脱いだ。滝沢もコートを脱いだ。芙蓉はセーターを脱いだ。滝沢もジャケットを脱い
だ、そうして芙蓉が最後にためらったとき、滝沢が待ちきれないように、芙蓉を脱がせた。
嵐のような揺らめきだった。その間も柳原君の面が頭をよぎった。この時柳原君は芙蓉にとって天上の
神と変わった。神聖そのものだった。芙蓉の手には届かない神になった。
芙蓉は神聖な神を胸に抱きつつ、滝沢の動きにつれて、響子のように甘いあえぎ声をあげていた。
それから三日にあげず柳沢はたずねてき、芙蓉の夜は果てのない歓びにしびれ、放心してベッドの上に
横たわることが多くなった。一人っきりの夜夜の寂しさから逃れることができた。
やがてお正月になり、お正月休みは二人ともそれぞれの実家に帰った。芙蓉は滝沢のことは母にも父に
も言わなかった。芙蓉が婿を取って病院を継がなければならないことを、芙蓉は忘れてはいなかった。
再び桜の季節が巡ってきた。滝沢と芙蓉は新郎と新婦のように手を取り合って上野の公園に花見に行っ
た。桜の下は立錐の余地もないくらい花見客で埋まっていた。滝沢は端の方にちょっとした空き地を見つ
けて、お花見シートを広げた。二人は芙蓉が作ってきたサンドイッチを食べた。桜の花びらが二人の頭上
に落ちてきた。二人は笑いあいながらお互いに花びらを取り合った。二人がビールを開けて飲み始めた
時、
「ねえ、芙蓉さん」と滝沢が切り出した。
「重大な話があるんだけど、僕、5月にミュンヘンの支社に転勤するんです。結婚して一緒に行ってもら
えませんか」
「ええっ!突然な!」
「桜の花の下で言いたくて、もうちょっと前に言われていたんだけど、今日まで待っていたんだよ」
「まあ!ミュンヘン!そんな遠い所、父と母にも相談しないと」
「勿論そうですとも。了解を得ておいてくださいね」
「ええ」
芙蓉は婿を迎えて先祖代々の病院を継がなければならない。婿を迎えて病院を大きくしたいという父の念
願をかなえてあげたい。柳原君と才女の噂を聞いて落胆し、破れかぶれの気持ちになって滝沢に近づき、
滝沢によって夢の世界を体験させてもらった芙蓉は、もう滝沢から離れなくなっていた。しかし、ミュン
ヘンと言われたとき、はっと自分の立ち位置に気づいた。ついて行きたい、けれど、一人娘を可愛がって
育ててくれた父に申し訳ない。
上野のお花見から帰る道中ずっと悩んでいた。
滝沢は、芙蓉が一緒に来てくれるものだと思っている。気持ちが高揚しているようだった。
「さっ、こっちへおいで。後片付けなんか置いて」
風呂上がりの滝沢は、ベッドに横たわって芙蓉を呼んだ。
芙蓉は魔法にかかったように滝沢の言うままに滝沢のそばに横たわった。
「一緒に来てくれな」と滝沢は耳元でささやいた。
「うーん」とあいまいに言って芙蓉はいつもの甘いあえぎ声を上げた。
滝沢は脱力して満足していた。腕枕をしている芙蓉に、ミュンヘンの新生活についての抱負を語ってい
た。
その時、インターホーンが鳴った。芙蓉が慌ててガウンを着ようと起き上がると、滝沢は出なくていい
とささやいて、芙蓉を引き止めた。二人が布団の中でじっとしていると、執拗にインターホーンが鳴っ
た。たまりかねて出ようとする芙蓉を、滝沢がしっかりと抱きとめ制止していると、あきらめたのか鳴ら
なくなった。
芙蓉はこんな夜に今まで訪ねてきた人もいなかったので、気味が悪かったが、滝沢が
「大丈夫だ、僕がいるから」と頼もしく言うので、ほっとした。
次の日の朝、店に出て広告の棚を外に出して整えていると、女の人が近づいてきた。その人は「紺野」
と書かれた名札をじろっと見て、
「芙蓉さんですね」と言った。
芙蓉が怪訝な顔をして、
「はい」と答えると、
「滝沢について話があります」と言って、
「今夜は何時に上がりですか?」と聞いてきた。
「六時です」
「では、その時あそこで待っていますから」と通路の隅の方を指さした。
芙蓉はあっけにとられ、滝沢に連絡も取れず、ずるずると退社時になり、待ち構えていた見知らぬ女に捕
らえられえて喫茶店に連れて行かれた。
席に着くと、
「私は滝沢の許嫁です」とその女は言った。
センスのいい眼鏡をかけている美しい人だった。芙蓉はびっくりして、声も出なかった。
「私は生まれ落ちた時から、滝沢の許嫁なのよ。私の母と修ちゃんのお父さんが同じ村の幼馴染で、同じ
年に相前後して私と修ちゃんが生まれたから、親同士二人が相談して許嫁と決めたのです。私は小さい時
から、あんたは修太朗さんのお嫁さんになるのよと言われて育った。だから修太朗さんの所に遊びに行っ
ても、誰も止めないの。高校を卒業して修ちゃんが大学に行くために上京する前日、私はいつものように
修ちゃんの勉強部屋でお話していました。その時私は生まれて初めて、男女のことを知ったのです。ショ
ックでした。それ以来私は大学の休みに修太朗さんが帰省してくるのを心待ちにしていたんです」
そこまで言って、息が続かないかのように、オレンジジュースを飲んだ。
「学生の時はまだ時々帰ってきてたけど、勤めだしてからは盆暮れに一、二日帰るだけ。そして、今度、
修太朗さんのお父様からお詫びが来たの。婚約解消してくれと。私ももう三十よ。煮え切らない修太朗さ
んを待って待ってしてこの年になったのよ。訳を聞いたら、あなたと結婚してミュンヘンに行くというじ
ゃないの。許せない。そんなことしたら、私は自殺してやる」
自殺と聞いて芙蓉に震えが来た。
「そんなことなさらないで下さい。ミュンヘンの話昨日聞いたばかりです。行くとも行かないともまだ分
からないのです」
「威張ってるのね、勝ち誇っているのね。修太朗さんに求婚してもらって、行かないってことはないでし
ょう。あなたはおごってるわ。私はどうなるの?もう結婚なんてできないわ。三十よ。修太朗さんとこん
なことになってなければ、まだ結婚できるかもしれない、この年でも。諦めもついたかもしれない。でも
もう私は修太朗さんのものになってしまったの」
そう言って相手は芙蓉をきっとにらんだ。芙蓉は震えた。
「あなたとミュンヘンにいったら、私は自殺してやるからね」
芙蓉はますます恐ろしくなった。
「私、くにに帰りますので、自殺なんて言わないで下さい」
「本当なんですね。一時逃れを言っているのではないですね」
「ええ、私は医者の婿を迎えて病院を継がなければならない運命ですから」
とっさに言葉がすらすらと出ていた。
「お約束します。どうか。自殺だけは思いとどまってください」
「本当ですね。今の言葉は修ちゃんに伝えますからね」
「はい」と言って芙蓉は席を立った。
滝沢さんにも暴かれる過去があったのだ。過去というより現在進行中の。芙蓉は嫉妬にさいなまれた。
あんな美しい人なのになぜ私を選んだのだろうと悶々とした。
その夜遅く何も知らない滝沢が芙蓉のマンションに来た。いつもと違う芙蓉の態度に滝沢は芙蓉を問い
詰めた。
芙蓉は、許嫁が来たことと、自分は病院の後継ぎとして婿を迎えなければならないことを打ち明けた。
滝沢は、芙蓉の親を説得に行きたいと熱心に芙蓉を口説いた。芙蓉は自分のふしだらを親に知られたくな
かった。滝沢は、許嫁の寿美子が上京してきているのも知らなかった。親父が、問い詰められて芙蓉のこ
とをしゃべったに違いないと、芙蓉にわびた。寿美子のことはちゃんと解決するし、芙蓉の両親にも許可
をいただくから、何が何でも、自分と結婚してほしいと言った。芙蓉は嬉しかった。
滝沢が何も心配しなくていいと芙蓉を抱きしめた時、芙蓉はぐったりとなって抱きしめられていた。頭
は何も考えられなくなって、ただ滝沢の激しい動きにつれて極楽で揺蕩っていた。その時またもやインタ
ーホンが鳴った。芙蓉が我に返って起き上がろうとすると、また、滝沢が芙蓉を押さえて制止した。まだ
四、五回インターホーンが鳴ったが、その後鳴らなくなった。滝沢も芙蓉もすっかり興をそがれていた。
寿美子を説得して函館に帰らせたと言っていたのに、四月の半ばになると、またインターホーンが鳴っ
た。修太朗は連休明けにミュンヘンに発つので引き継ぎに忙しく、芙蓉の所に訪ねて来るのも難しくなっ
ていた。
芙蓉はドアを開けて外に出た。寿美子が立っていた。
「ちょっと、お話したいんで、出てきてくれませんか」と寿美子は言った。芙蓉はコートを着て寿美子の
後に従った。寿美子は近くの喫茶店に入った。
「修太朗はあなたをミュンヘンに連れて行かないし、あなたとも結婚しないと約束してくれました。その
ことをあなたに伝えるとも約束してくれました。あなたはそのことを修太朗から聞きましたか?」
「は、はい」
芙蓉は聞いていなかった。でも、勢いに押されてはいと答えていた。
「私は修太朗に呼ばれなくても、あとから行きます。その時あなたがいたら私はその場で死にますから
ね」
「わかりました。どうか死ぬのはやめて」
「修太朗とあなた次第です」
「はい」
芙蓉はそれだけ聞いて逃げるように帰ってきた。
翌日出社してすぐ店長に五月いっぱいで退職を願い出た。
いよいよ旅立ちの三日前になった夜、滝沢はやっと芙蓉を訪ねてきた。今夜が最後のチャンスになると
覚悟していた。芙蓉は実家に帰って家を継ぐ決心をしていた。許嫁の寿美子が現れていなかったら、芙蓉
はまだ東京で働いて、休みになるとミュンヘンに飛んで行ったことだろう。しかし、寿美子の自殺すると
いう脅しは芙蓉の心を震撼させた。寿美子の様子からしてしかねないと思った。滝沢はまだあきらめきれ
ないのか、寿美子が落ち着いたら結婚しようと言っていた。
「私、寿美子さんを犠牲にしては幸福になれないの。半年だったけど、あなたが教えてくださった歓びは
何ものにも代えられないわ。滝沢さん以上にわたしを歓ばせてくださる人はいないと思う。あなたのこと
はこれから先どんな方に巡り合っても忘れられないと思う。好きよ。大好きよ」と言って滝沢の胸の中に
飛び込んでいった。滝沢はしっかりと受け止めてくれ、長ーく虹色の雲の上を泳がせてくれた。芙蓉は離
れがたくしっかりと滝沢にしがみつき頬を胸にくっつけていた。
やがて滝沢はミュンヘンに去った。芙蓉の体は抜け殻のようだった。芙蓉はまるで実体のない肉体を抱
いて動いているように感じながら、最後の勤務に励んだ。
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