小説 カンナの恋
カンナは夫の骨壺を、空想の中で、海の水平線、沈みゆく太陽のかたわらに置いてみた。何の変哲もないつるつるとした光沢のある白い骨壺。太陽に比べたら、本当に小さい骨壺が、海面に揺れながら、楽しそうに波と戯れている。
カンナは今、夫の遺骨を青梅の夫の両親に預けて、神戸空港に帰って来たばかりだった。
もう家に帰っても夫の遺骨さえなくなって、本当に一人ぼっちになったのだ。カンナは彼方の骨壺に向かって、さよならというように人差し指を左右に振った。
「奥様、ハンカチを落としていましたよ」
カンナが我に返って横を見ると、隣に座っていた男性が、ハンカチを拾って、カウンターにおいてくれるところだった。
その顔を見たとき、何か懐かしいものがカンナの胸に広がった。その顔はどこかで見たことがあるような‥。
「すみません。ありがとうございます」
「どういたしまして」
それだけで会話はとぎれてしまった。
いい感じの人だという思いが胸の中に広がっていく。何か会話の接ぎ穂がないかと思いながら、ハンカチをもじもじと掌の中で揉んでいるうちに、太陽は沈み、暗くなった水面と一緒に、骨壺は見えなくなってしまった。
カンナは隣を強く意識し、会話の接ぎ穂はないかとあれこれと考えた。美しい夕日に気をとられ、骨壷の幻影に見とれていたので、隣の様子がわからない。それでも何とか隣の男性とつながっていたいと思ったカンナは、「夕日がきれいでしたね」と話そうか、「今からどちらかに行かれるのですか」と問いかけようか、などと、思い巡らしていた。
その時、
「お待ちどうさま」と、ウエイトレスが、隣の席にパスタを運んできた。
カンナはほっとした。チャンスはまだあると考え、自分も隣と同じことをしようと
思い、
「すみません、メニューお願いします」と、ウエイトレスを呼んだ。
「ドリアお願いします」とカンナはとりあえず注文した。
ドリアが出てくるまでに時間がかかった。その間に男性が食事をすませて出て行くのではないかと、気が気でなかった。
男性の気をもう一度引くのにはどうしたらいいだろうか。カンナはとっさにもう一度何かを、今度はわざと落としたらいいのだと思った。
カンナは、左のひじで偶然こすったように見せかけて、伝票を落とした。
うつむいてスパゲッティを食べていた男性は、
「あっ、落ちました」
と言って、靴の脇に落ちた伝票を、わざわざフォークを置いて拾ってくれた。
「あらっ」と言って、カンナは申し訳なさそうに微笑んだ。
「私ったら、二度もご迷惑をかけて、お食事中なのに申し訳ありません。なんて今日はそそっかしいのでしょう。」と、頭を下げた。
「いえ、大丈夫です」と、男性は答えた。
そこへ、ドリアが運ばれてきた。
「これから、最終便で東京に行かれるのですか?」
と男性は声をかけてくれた。
「いいえ、東京から今帰ってきたのです。でも、家に帰っても一人ですので、ここでお食事をすませていこうと思ったんですわ」
「ほう、お一人なんですか?僕はこれから、最終便で東京に帰るのですが、もし、そちらも東京に帰られるのでしたら、ご一緒できると思ったのですが」
「残念ですわ。ご一緒できたらよかったのに」
「まだ、出発まで時間はたっぷりありますから、うちに帰ってもお一人なら、ゆっくりお話ししましょうか。僕も待ち時間をつぶすのに困っていたところですから」
「ありがとうございます。私も、実のところお近づきになれたらと、思っていたところです」
そう言ってカンナは、薄い唇から白い歯をのぞかせて、媚びるように笑いかけた。
カンナは、自分の思う壺にはまったことで、自分の思いつきがよかったのだと、心の中で、自分をほめていた。自分がナンパしようとしていたのに、相手からナンパされたようになったのを、嬉しく思っていた。
カンナは、意識して淑やかにスプーンを口に運んで、恥じらったように笑いかけた。男性も、カンナの微笑みにこたえて笑い返した。その笑顔が好きだとカンナは思った。もう若くはない男なのに、何故か笑顔が可愛い。
カンナは沖で揺れていた骨壺を、思い浮かべた。あの時、夫の骨壺が、楽しそうに波に揺れていたのは、夫も、自分を応援しているのではないかと思った。
「東京で、何か用事でもありましたか?」
と、男は食べ終わってフォークを置いて話しかけてきた。
「亡くなりました夫のお骨を、夫の実家のお墓に納骨してきましたの」
「ほほう、それはそれは・・・。四十九日の法要とかで・・・」
「いいえ、もう、亡くなってから、二年経ちました」
「ほう・・・」
男性は、腑に落ちないというふうに、言葉を詰まらせた。
「私はね、お墓を住み慣れた神戸に造りたかったのですけど、夫の両親は認めてくれなくて、結果二年もうちでいることになってしまったのです」
「ほほう、それは長かったですね」
「ええ、でも決心がついて先祖代々のお墓に納めてきまして、ほっとしました」
「そう言うときに、たまたま隣同士に座ったというのも、何かのご縁かも知れないですね」
「おっしゃる通りですわ。私も何か不思議なものを感じますわ」
「僕は大体月に一度は神戸に来まして、得意先を回っているのですが、普段は新幹線なのに、今日はふと飛行機にしてみようと思ったんです。これも、不思議なご縁ですね」
「お得意様回りといいますと、何かお商売でも?」
「ええ、小さな会社を経営しているのです。木工のおもちゃを製造しているのです」
「まあ、夢のあるお仕事ですね」
「いや、まあ」と言って男は照れ笑いしている。
「ところで、ビールは如何ですか?」と、男は話を変えた。
「まあ、どういたしましょう。じゃあ、いただきますわ」
「じゃ、僕も」と言って、男は、ウエイトレスを手招きして、生ビールを注文した。
「アルコールは強い方ですか?」
「いいえ、コップ一杯くらい飲んで、ほろ酔い加減の時が一番楽しいです。心がうきうきしてテレビに向かって話しかけたり、踊りながら歌ってみたり。でも、すぐ醒めて、しらふになると、それこそ、しらじらとして淋しいです」
「僕も同じです。母は一杯ぐらいは僕に付き合ってくれるのですけど、それ以上は飲めなくて寝室に引き上げてしまいます。するとつい僕は一人で深酒してしまうのですよ」
「お父様はお飲みにならないの?」
「両親は、僕がもの心つかないうちに、離婚していましてね。母一人子一人で大きくなったのです」
「男性は、お幾つになっても、若い方をもらえますわよ。今からでも、遅くないわ。それに比べたら女性は不利ですわね」
「何をおっしゃいますか。あなたなど、お見受けするところアラフォーというところでしょう。まだまだ魅力一杯ですよ」
「お世辞がお上手だわ」
「いやいや、お世辞じゃありませんよ。あなたの手、ほんと、きれいです。ちょっと触らせて下さいますか?」
「いけません。駄目です」
「でも、ちょっとだけ」
そう言ったかと思うと、男は、テーブルの上に置いているカンナの左手を、軽く二、三度撫でた。
カンナは二年間、男性にさわられたことがなかったので、そんなことだけでも、心も体も震えていた。酔いも手伝って、うっとりとした表情で男をみると、白髪のみえる男の顔がますます奥深く思慮深く、頼もしく見えるのだった。
「僕は柏木明也といいます。ここに僕の会社の住所がありますので、お渡ししておきます」
と言って、男はポケットから名刺入れを出して、名刺をカンナに渡した。
「ありがとうございます。いただきます。私は名刺などありませんから、何かにメモしてお渡しします」
と言って、バッグから手帳を出すと、
「この裏に書いて下さいな」
と言って、自分の名刺をもう一枚出した。
「ほほう、山辺カンナさん。美しい名前ですね。僕はカンナさんみたいな人が好きです」
「そんな、歯の浮くようなお世辞をおっしゃって。でも、嬉しいわ。そんな風に言って下さる方が、まだいるなんて。私は一人暮らしですから、いつでもお電話下さいね」
「来月は、一日余分をとって神戸に来ます。ああ、もう、飛行機に乗らなくっちゃ。来月まで体を大切にしててくださいよ」
「はい、あなたも、お気を付けて・・・。お名残おしゅうございます」
そう言って、カンナが、お辞儀をしかけると、男はカンナの手を両手でくるんで力強く握りしめてから搭乗口に入っていった。
カンナは、幸せだった。しかし、不安もあった。行きずりの人に、ただ、外見と物腰が紳士的に見えたからといって、心を明け渡してしまっていいものだろうか。ポートライナーに乗ってから、名刺を取り出して見る。株式会社・柏木木工とある。住所もちゃんと書いてある。騙されてはいないと確信して、カンナは名刺をバッグに戻した。
マンションに帰って時計を見ると、まだ十時だった。カンナは今日の出来事を報告したくて、三人の女友達に簡単な電話をかけ、翌日四人でランチをする約束をとりつけた。
あくる日、カンナと三人の女友達は、神戸居留地の小さなホテルのレストランに集まった。
席に着くと、真っ先に邦子が問いかけてきた。
「なんなの? 話したいことがあるっていうのは?」
穂波も千里も、興味津々の目を、カンナに向けてきた。
「実はきのう空港ですてきーな男性に巡り会ってね。いきなり、名刺を渡されて、次に来たときには、会いたいって言われたの」
「それで、どう言ったのよ?」
と、千里が身を乗り出してきた。
「どうも、こうも。押し切られるような調子になって、私も携帯の番号教えたわ」
「それ、どういうこと?よっぽど、感じが良かったの?」
と、穂波が聞いてきた。
「うん、一目見たときに、清潔な感じのする人だなあって。インテリジェンスもありそうだし、悪くないと思ったのよ」
「カンナは男を見る目があるとも思えないから、ちょっと、危険な気がする」
と、邦子が言った。
邦子はお酒に強く、カラオケバーや派遣先で意気投合した男性と、初対面であってもホテルに行って平気だと吹聴している。「そんなことをして、やばい人にひっかかったらどうするの」と問うと、若いときからそうやってきて、一度もトラブルに巻き込まれたことはないと言う。自分には、人を見る目があるのだと豪語していた。そして60歳にして、派遣先の4歳年下の男性を射止め、もうすぐ正式に結婚することになっていた。
カンナはそんな邦子から大いに刺激を受けていた。自分より8つも年上で、年下の男性をものにしていると思うと、嫉妬めいた気持が湧いてくる。自分は2年間夫の遺骨にお線香を立て続け、一人も男性は寄って来なかった。
カンナは、邦子が、男性とのこまごまとした行為を逐一語ってくれるので、妙に刺激を受けてしまった。千里も、穂波も邦子の話を聞きたくて、集まってくる。
四人は、邦子を中心に同盟を作っているようなものだ。おもてには表さないが、心の奥底での好き者同士が、集まっている。
千里は45歳。四人の中では一番若いが、夫とは少しずつ気持がすれ違ってきて、夫の求めに応じる気になれず、日ごとの夫の求めは拒否をしていると、みんなに話していた。 穂波は、邦子の話を聞く度に、自分も邦子のような奔放な喜びを味わいたいと告白している。別の人と出会えば、邦子のような深い深い喜びを体験できるのではないかと、憧れている。でも、50歳では、もう遅いのではないかと思っている。
カンナは名刺を取り出した。
穂波が名刺を見ながら、
「ちょっと、大丈夫? 名刺では立派な人に見えるけど・・・」
と、疑わしそうに言っている。
「柏木さんは、凄くセンスのあるジャケットを着ていたわ。顔も神田正輝をふっくらさせたような顔だった。私ちょっと一目惚れかもよ」
「一目惚れは、危険だよ」
と、邦子が言った。
「でも、なんか羨ましい。一目惚れできるような人に出会えるなんて・・・」
と、穂波が細い目の奥を輝かせて言った。
「私だって穂波と同じで、一目惚れできる相手があったら、靡きたいわ」
と、千里も言った。
カンナ自身は遅い結婚で、死んだ夫も43歳まで独身で、お互いに若い情熱は失っていて、肉体関係は淡々としていた。邦子の奔放な男性関係の話に、大いに刺激を受けて、自分はまだ本当の悦びを知らないと体が熱くなることもあった。
「さっ、今日は、カンナの奢りだからお料理を取ってきましょう」
と邦子が言った。
「そうよ、カンナに当てられっぱなしでは、割が合わないわ」
と、千里も立ちあがった。
「私、バッグ見ててあげるから、私のものも適当に取ってきてね」
と、穂波が言った。
カンナは年甲斐もなく、ウエイターにも欲情して、マリリンモンローのように腰を大きく振って歩いた。それを見ていた穂波は、自分の中にもじわじわと炎のような欲情が盛り上がって来るのを感じた。穂波はおしりを押しつぶすように椅子につけて、料理を載ったお皿が運ばれてくるのを待った。
四人はむさぼるように料理を食べた。口の中には絶えず食べ物が入り、貪欲に咀嚼し、食べながら朗らかに笑った。ビールを飲み、喉は鳴り、胸は大きく波打った。笑い声ははじけ、。皆、カンナと一目惚れの男との未来を話題にしては、刺激され、興奮していた。
話題は、あちらこちらへと飛び散り、近々結婚する邦子の相手の男への憶測や好奇心をあからさまに口に出してしゃべった。しゃべりながら、頻繁に立って行って、デザートのケーキやアイスクリームや、紅茶、コーヒー、すべてのものを食べ尽くし、飲み尽くした。尚も居続けていると、若いウエイターがやってきて、「お時間になりました」と告げた。
過激であからさまな話題で、入ってきたときの三倍も四倍も興奮したカンナは、グラスワインの酔いも手伝って、うるんだ目でウエイターを見つめ、寄り添うような微笑を浮かべながら、「長居してごめんなさいね」と許しを請うように言った。
邦子はその様子を見逃さなかった。
「カンナは危険だよ。誰彼なしにお色気をふりまいている。カンナの目を覚まさせるためにも、今日はカンナに奢らせよう」
「そうよ、そうよ」
と、千里が言った。
「当然!」
と、穂波は笑いながら言う。
「OKだわ。払いますよ」
と、カンナは応じた。
邦子が結婚すると報告したときも、みんなは羨ましくて邦子に奢らせた。この仲間は遠慮会釈なく、恋の幸せ者にたかるのが決まりだった。
ホテルのレストランを出ると、方向がばらばらな四人は、それぞれの私鉄やJRの駅の方に別れた。
カンナは一直線にマンションに帰った。静かで誰にも邪魔されない所で、一目ぼれの人に電話をかけたかった。
マンションの鍵を開け、ハンドバッグから携帯電話を取り出すと、両手で握りしめて、胸に当てた。それから、ワンピースを脱ぎ、体を締め付けているブラジャーを取り、部屋着に着替えた。
カンナは気を落ち着かせようと、ベランダに出て花に水をやった。
カンナは、自分は一体何をしようとしているのかと、花に問いかけた。自分は思慮深い人間だと思っていたけれど、本質は軽い女だったのだと気がついた。わざと伝票を落として、男を誘惑したのだ。しかし、あの人はいい男だったなあとカンナは柏木明也の姿形を思い出して、身震いした。如露が大きく揺れて、水が的をはずれて、ベランダに落ちた。
その時、携帯の呼び出し音が大きく響いた。カンナはサンダルを脱ぐのももどかしく、携帯に飛びついた。
「柏木です。昨日はどうも」と言う懐かしい声が聞こえた。
「昨夜はありがとうございました。ご無事にお帰りになりまして?」
「ええ、勿論。ずっとカンナさんのことが気になって、ようやく手がすいたので、カンナさんの声が聞きたくてかけました」
「ほんとう? 私も一晩中、明也さんのことばかり考えていましたのよ。今度、神戸には、いついらっしゃるの?」
「全国のお得意さんを、僕ひとりで廻っていて、神戸と大阪は毎月行くから、来月の初めには会えるよ」
「まあ、九月の始めね。待ち遠しいわ。それよか、私が東京に行こうかなあ」
「東京に来れる? おいでよ」
「いいの? いつ?」
「いつでもいいよ。カンナさんの都合のいい時で」
「じゃあ、じゃあ、再来週でもいいかしら?」
「いいよ。来る前日に電話ちょうだいよ」
「ええ、電話するわ。それじゃ、約束ね」
「OK。カンナさんはやっぱり一人でしたね。安心した」
「そんな、私が嘘なんて言います?」
「いやいや、そんなつもりはなかったけど。じゃ、約束ね。待ってるよ」
カンナは電話が切れたあと、放心状態だった。カンナはこの嬉しさをひとりで持ちこたえることはできなかった。
誰かに話したかった。カンナは間を置かず、穂波に電話をかけた。
「ねえ、聞いてよ、穂波。私ね、再来週上京して、柏木さんと会う約束したのよ」
「ええ?もう家に帰り着いたの?そしてもうそんな約束もしたの?私ね、たった今帰り着いて、今、暑苦しいパンストを脱いでいるところなのよ」
「なにぃ、穂波、パンストを脱ぐなんて、おかしげなこと言わないでよ」
「だって、本当よ、今、脱いでいるところなんだもの」
「穂波、いやーだ。貴女は慎み深い奥さんのはずじゃない」
「カンナが、色々聞かせるから、私もおかしくなっちゃったのよ。私も、カンナのように自由の身になりたいわ。そうしたら、ハンカチだってチケットだってルージュだって、なんだってわざとに落とせるもの」
「穂波、大丈夫なの?今家に誰もいないの?」
「大丈夫よ、私一人よ」
「貴女はご主人がいらっしゃるけど、私は夫もいないし、50歳も過ぎたし最後のアバンチュールよ」
「そうね、私には一応主人がいるのだから、あきらめるわ。カンナや邦子の話を聞いてのぼせていたけれど、気を静めます」
「ごめんなさい。ひとりいい気になって、慎みがなかったわね」
「あれ、カンナ、私たちは、慎みがないから、いいんじゃない。お上品にばかりかまえている仲間だったらつまらないわよ。張り切って、行ってらっしゃい!」
「ええ、ともかく行ってみます。行って会ってから、どうするか決めるわ」
「嘘でしょ、そんなの。カンナは一目惚れで、もう、心はいっちゃってるわよ」
「そんな、でも、まあ…」
「ほら、図星でしょ。でも、一目惚れは悪くないのよ。相性がいいから一目惚れになるということも、あるんだから。パンスト脱いだらすっきりしたわ」
「また、パンスト。じゃ、早く着替えてね。東京から帰ったら、また、報告するわ」
翌日カンナは千里に案内してもらって、エステサロンに行くことになった。亡くなった夫にはありのままの体で接していたけれど、柏木には、「綺麗だね」と言ってもらえる肉体でありたいと思った。それを見透かすように千里は聞いてくる。
「カンナはボディもするでしょ?」
「するわ。初めてのことで、面映ゆい気もするけど、少しでも綺麗になりたいの」
「私は、まだ白馬の王子様が現れていないから、今日はフェイスだけにしとくわ」
「千里は、すべすべの肌をしているのに、それでも、ちょくちょくエステに通っているのは、どういうわけ?」
「それは、主人とうまくいかなくって、いらいらするでしょ。そう言うときに、ストレス解消に行くのよ」
「ああ、もう着いたわよ。このビルよ」と言って、千里は、居留地のビルの前で立ち止まった。
二階を見上げている千里の立ち姿をちょっと脇から眺めたら、ほっそりとした体に、イタリア製の薄物の生地でできたワンピースが、体になじむようにまとわりついて、モネの絵を見ているように美しい。どうしてこんな美しい人が、夫とそりが合わなくって、つらい人生を生きているのか、理解できなくなってくる。明也が二人を見比べたら、千里をとるに違いない。いや、明也のみならず、世の男性は全部千里に靡くだろう。
カンナはふくらんでいた気持に水をかけられたようになって、エレベーターに乗り込んだ。
一歩足を踏み入れると、そこは別世界のように社会から隔絶された静謐な世界だった。顔にも腕にも一点のシミもないつるっとした蝋人形のような肌をした、一見したところでは玄人風に見える中年の女性が応対に出てきた。千里はカンナを紹介した。女性は、千里に丁寧にお礼を言うと、千里をすぐさま更衣室の方に行かせ、カンナだけを別室に案内した。慇懃にお茶のサービスをし、エステのコースをいろいろ説明し始めた。その時始めてエステが高いものにつくことに気付いたのである。カンナは言葉巧みに勧めてくる三十万円のコースを、かろうじて断って、十五万円のコースにした。明也に最初に会うときだけは、綺麗にいたい。その思いで全身エステを希望したものの、あとあとまでお金が続かないのが解った。だから、明也に会うまでに、二日おきに三回全身のエステを受けることにした。そして、それで、もうエステはお終いにしようと思った。
裸同然のような姿で横たわったカンナに、歯の浮くようなお世辞と、体に塗られている得体の知れない物質の由来や効能が語られ続け、合間合間にカンナの趣味や家族のことが聞かれたりしたが、カンナはそれらの言葉を、遠い所の音楽のように聞き流し、心の中ではずっと明也との逢瀬の夢を見続けていた。それはしっとりと流れる甘美な時間であった。
エステを終えて、頭皮から足の先まで綺麗になったはずだと、鏡をのぞき込んだとき、それ程変わってもいないのに少しがっかりしたが、現実世界を忘れて、明也に抱かれている夢を見続けられた時間を思うと、満足だった。
カンナは、先に終わった千里が、大丸で買い物をして待っていると聞かされて、急いで、千里の後を追った。
「どうだった?」と千里は聞いた。
「よかったわ。してもらっていることよりも、空想している方が夢みたいだったわ」
「あら、東京の男の人のことを思ってたのね」
「だって他に思うことがないもの」
「羨ましいなぁ、そんなにいい人が現れるなんて・・・。そんな経験私もしてみたいわ。東京から帰ってきたら、逐一みんなに成り行きを報告してよ」
「ええ、それはもう。何の隠し事もなく自分の恋の話をするということで、私たちは団結しているのだもの。どんなことだって聞いてもらうわ」
「ともかく、頑張ってきて」と千里は言い、二人はそれぞれの帰路についた。
いよいよ明也に会える日がやってきた。明也が12時に東京駅に迎えに来てくれることになった。その朝は風呂場に行ってシャワーで体の隅々まで洗った。髪の毛は念入りにブローして、濃いめの化粧をして新神戸へと向かった。
新神戸駅に入ると、すべての乗客が、皆幸せそうに見えてくる。美しく着飾った女性たちばかりが目について来る。そっけないジーンズ姿の若い女性とか、ナップザックをだらしなく背負った年配女性の姿は目に入らなく、自分より少し若いかと思われる、流行の洒落た洋服を着た女性ばかりが、目に飛び込んでくる。この人たちは、どこへ、何をしに行くのだろうと推測し、皆が、秘密のいとしい男に逢いに行くように見えてくる。美しく着飾ったあなたたち、自分に見合う力で、人生を謳歌してください、私もそうしているのですから、と、心の中で呟いた。あの人たちも幸せになり、自分もそれ以上に幸せになりたいと、胸を高鳴らせ、この美しい女たちの誰よりも、今明也に逢おうとしている自分が一番幸せなのだと、世の中のすべての人に誇示したい気持ちになった。
カンナは幸せだった。暗いトンネルの中でも、トンネルの合間の一瞬で通り過ぎる明るい景色の中でも、最高に幸せだった。
列車は、希望に満ちたカンナを乗せて、あっという間に静岡を過ぎた。
やがて新横浜に着き、下り支度を整えると、品川がすぐに来た。カンナは東京駅着を待ちきれず出口に行き、並び、今か今かと東京到着を待った。
やっと、列車は東京駅のホームに着いた。カンナは下りた。明也がカンナを見つけて近寄ってくるはずだった。だが、カンナがどんなに目を凝らしても、明也の姿が見当たらなかった。カンナはそんなはずはないと、視線を遠くにやった。けれど、明也らしい姿は見当たらなかった。そのうち、同じ列車から降りた人は、ほとんど、ホームにいなくなり、次に到着した列車の乗客でホームが一杯になった。そしてまた、その人たちもホームから去って行った。見通しのよくなった長いホームを前、後ろと見渡したが、明也らしい人の姿はない。
カンナは真っ青になって携帯を取り出し、明也に電話を掛けた。いくら呼び出しても、明也は出てこなかった。しばらく時間をおいてまたかけた。しかし応答はなかった。
カンナは真っ青になり、目がくらみ、階段の壁にしがみついた。
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