秘められた青春- 昭和の娘 芙蓉と葵 - (完全版)

                                       


  
(1)

 

 芙蓉は庭の水仙を切って紙にくるみ、ピンクのリボンをかけて、杉野先生のマンションを訪れた。

 マンションに杉野先生がいらっしゃるかどうかは、賭けのようなものだった。日曜日、先生は

時々田舎の実家のほうに帰られる。芙蓉は胸をどきどきさせながらインターホーンを押した。

「おお、紺野か」という声が聞こえて、先生はガチャっという音を立ててドアを開けた。

「おお、上がれ、上がれ」と杉野先生は芙蓉の手をつかんで、廊下に引き入れた。

先生にじかに手を触れられたのは初めてだった。突然体が熱くなるような、先生に甘えたくなるよ

うな気持が予期もしないのに体の底からこみあげてきた。

 芙蓉は女らしい科(しな)を作って、

「お邪魔します」と顔を赤らめながら言い、勝手知ったリビングルームのソファーに腰かけた。

「先生、今日は今井君たち、来ていないの」

「うん、今日は誰も来ないなあ。ところで、今日は葵は来なかったのかい?」

「ええ、今日は親戚の法事に出かけるらしくて、来れなかったの」

「そうか」と先生は言っていつものように紅茶を入れてくれた。

「せんせ、庭の水仙が綺麗だったので、持ってきたの。いつもの花瓶に活けていい?」

「おお、いいよ。いつもありがとう」

 杉野先生は、レモンティを二つテーブルの上に置いて、芙蓉と向き合って座った。

「紺野は京都I短大に決めたのだね。もう心は定まったかい?」

「せんせ、私、東京のE短大に行きたいと思うようになったのだけど、受かるかしら?」

「えっ、京都やめたの?どうして?」

「どうしてっていうわけでもないけど、東京は世界でも一番の都市だときいて、自分もそんな大都市に身を置きたくなったの」

「そりゃあ、お前の実力があれば、E短大なんか軽く受かるよ。でも、親は何て言っているの?」

「父は自分も東京の医科大学に行っていたので、反対はしないの。母は東京に女の子を一人でやる

なんて心配だと言っているけど、卒業したらお婿さんを迎えてずっと家の病院を継いでいかなけれ

ばならないから、ちょっとの間だけでも自由にさせてやりたいという気があって、強く反対できな

いらしい。私も卒業したらこっちに帰って来て、花嫁修業すると約束したのよ」

「そうか、親がそう言うのだったら、学力の方は大丈夫。お前、この前の模試よかったじゃないか」

「あれは、まぐれかもしれないわ」

「そんなことないよ、お前なら大丈夫」

「せんせ、ありがとう。嬉しい!」

そう言って芙蓉は紅茶を飲み干し、

「お花活けるわね」と言って立ち上がり、これも勝手知った洗面台の下から花瓶を取り出した。

 今日は男子は来てない。ちょっと、期待外れだった。クラスの男子がグループでしょっちゅう先

生の所でたむろしている。

 その中の柳原君が芙蓉がひそかに心を寄せている男子だった。柳原君は学年でいつもトップに立

っている。芙蓉の手の届く存在ではなかった。自然にクラスの学級委員長に押し上げられて、教壇

に立ってクラスをまとめることが多かったが、本人はシャイで押しつけがましいところは全然なか

った。むしろ控えめ目で、皆に同意を求めようとするような人だった。だから杉野先生のマンショ

ンに押しかけている男子仲間の中心的人物は柳原君でなく今井君だった。柳原君は今井君に誘われ

て来て、グループの中で大人しくいるようなタイプだった。

 芙蓉は、柳原君が教壇に立って柔らかい態度で前列の人に「なあ」とかいって、同意を求めてい

るのを見ているうちに、柳原君に恋い焦がれるようになっていた。イケメンではなかったけれど、

背丈はあり、いつしか教壇上の柳原君を、じっと見つめるようになっていた。好きだ。けれど、柳

原君は十年に一度出るような秀才で、職員室でも話題になっている人である。芙蓉は成績からいう

と中ぐらいだと自覚しているし、顔にも自信がなかった。自分から打ち明けることは出来なかっ

た。せめて、今井君たちに混ざって杉野先生の所にたむろしている柳原君を見るために、杉野先生

にあこがれている葵を利用して、進学相談を名目に先生をしばしば訪ねて来るぐらいしかできなかった。

 男子たちが押しかけているときは、その輪の中に、芙蓉も葵も入れてもらっていたけれど、芙蓉

はただにこにこ笑っているだけだった。柳原君を意識している様子を外にはあらわさなかったが、

胸の内は柳原君のことでいっぱいだった。芙蓉は柳原君が好きだと葵にも打ち明けなかったが、葵

は杉野先生が好きだと芙蓉に打ち明けていた。

 芙蓉は男子たちが来ていなかったことに内心がっかりしていたが、水仙を活け、リビングのサイ

ドボードに置いた。

「ああ、きれいだ。気品があるなあ。部屋の雰囲気がいっぺんに変ったよ。紺野は才能があるな

あ。貴族の部屋のようになったわ」

「せんせ、おだてがうまいわあ」

「おだてでないよ。いつも庭の花持ってきてくれるだろ。活けてくれるたびにそう思うんだもの」

「まあ、せんせ、嬉しい」

 芙蓉はのぼせたようにほほを赤らめ、飲み終わったティカップをシンクに運んだ。

「ああ、そのままにしておいてよ。後で片づけたらいいんだから」

「ううん、こんなことぐらいすぐだから」

芙蓉はちゃきちゃきと洗い物を片付けると、カップを布巾で拭いてこれも勝手知ったるサイドボードにしまった。

 ハンカチで手をふきながらソファーに戻ると、先生は吸い終わった煙草を灰皿でこすって消した。

「せんせ、柳原君東大の理3受けるってみんなが言っているけど、本当?」

「うん、たぶんそうなると思うな」

「せんせは東京で住んだことある?」

「ないよ。僕は山の中の田舎から街に出てきて、国立大学に入れたのが、いろんな意味で精いっぱいだった。今の君らは恵まれてるよ」

「そうなの?」

 そう言いながら、芙蓉は、も少し待っていたら男子が来るのではないかと、先生の所を去りがた

く、しばらく雑談をして男子の来るのを待っていた。

 先生は、話が途切れた時、

「レコードかけようか?」と問いかけてきた。

「ええ」

 杉野先生はショパンのレコードをかけた。

 ショパンを聞きながら芙蓉の想いは柳原君へと傾いていった。柳原君は本当に好きだ。目をくる

くるさせて、皆から人気があって選ばれた学級委員長であるにもかかわらず、物事を決める時は、

威張らないで、むしろ皆に問いかけるように何事を言うにも笑みを欠かさない。

 芙蓉は杉野先生がいるにも関わらず、柳原の姿を夢見て、ショパンを聞いていた。そうしている

うちに、わけのわからない欲望が、身体の内部から湧き上がってきた。芙蓉は目を閉じたり、薄く開けたり、うっとりとして、空想に身をゆだねていった。

 ふと気が付くと、杉野先生が芙蓉の座っているソファーの横に座っていた。気配に驚いて芙蓉が

振り向くと、先生はモノも言えないような早業で、芙蓉の唇をふさいできた。芙蓉は先生を押しの

けようとしたが、先生は強い力で抱きしめ、抱いたまま一方の手で下着をはぎ取った。

 あっという間の出来事だった。

 痛みが走った。

 先生もはっと我に返ったのか、すぐ立ち上がると、優しく芙蓉を清め、元の姿に直し、絨毯に頭をつけて、

「ごめん、申し訳ない」と謝った。

 芙蓉は、夢遊病者のようにふらふらと立ち上がった。

 無意識に玄関の方に行こうとすると、先生は芙蓉の腕をとって引き留めた。

「紺野、このことは誰にも言わないで。僕も誰にも言わないから。紺野は将来医者の婿さんを取っ

て家を継ぐ身なんだから。ごめん、ごめん、申し訳ない。僕は医者でないからお前が好きでもどう

にもできない。お父さんやお母さんにこのことは言わないで。もう二度とこんなことはしないから」

 芙蓉は、先生が遠くの方で何か言ってるぐらいにしか聞こえなかった。

 もうこれで、柳原君と一緒になる資格はないと思うばかりだった。

 芙蓉はこの場から離れたく、またよろよろと玄関に向かった。

「なっ、お願いだ。頼む。このこと、なかったことにしてくれな」

先生はまた絨毯に頭をつけた。

 芙蓉はその様子を遠くの出来事のように眺めて、返事の言葉が出なかった。

ふっとリビングを見ると、サイドボードの上の水仙が清楚な姿で立っていた。

芙蓉は先生に持っていこうといそいそと水仙を切った時のことを思い返した。それから数時間もた

たないうちに自分の世界は思いもよらないことになってしまった。

 芙蓉は絨毯に頭を擦り付けている先生に何の感情もわかず、靴を履いた。

「送っていくよ」と先生は言って、芙蓉よりちょっと後ろを歩いて、ずっと家までついてきた。

 芙蓉は振り返らず家に入った。

「お帰り」と母は言った。

「杉野先生は、E短大に変えること、どうおっしゃった?」

と、母は二階に上がろうとする芙蓉を呼び止めた。

芙蓉は仕方なくリビングに入った。

「せんせは、E短大も大丈夫だって」

「そうなの、それはよかったね。お母さんもこれからしっかりしないとね。芙蓉のことばかりが心

配にならないように、しっかりするわ」

 芙蓉は母に今日のことを打ち明けられなかった。

母は何も気づかず、

「芙蓉の帰り待っていたのよ。ご飯にしましょう」と言って立ち上がった。

 父が本宅から少し離れた父の病院から帰ってくるのはいつも遅いので、母子二人で食卓を囲むのが常だった。

 芙蓉はいつものように明るくふるまって、食事の後片付けも手伝って、二階の自室に入った。

 もう自分は柳原君を想う資格がないのだと芙蓉は思った。けがれた人間なのだと思った。一瞬の

ことだったけれど、その衝撃は強かった。忘れようとしても忘れられなかった。

 早く帰るべきだった。柳原君に会いたい一心でせんせの所で粘っていた。そして音楽を聴いて、

柳原君のことを想っていると、わけのわからない欲望が体の奥底から盛り上がってきた。それがせ

んせに伝わったのかもしれない。せんせだけが悪いとは言えなかったかもしれれない。自分の中に

盛り上がってきたものが、せんせを誘いこんだのかもしれない。あの時の自分の気持ちは何だった

のか。自分では一度も経験したことのないもやもやしたものが体の中から、湧き上がってきた。そ

こをせんせに突っ込まれたのだ。自分はあのような気持ちが、自然と盛り上がってきたのを、情欲

だとは気づかなかったのだ。ただただ、柳原君が好きでもやもやとしていた。せんせに対してはそ

んな気持ちはなかったのに。せんせは、私の様子を見て、勘違いし、私を犯したのだ。せんせは、

私と結婚出来るはずがないとはっきり思っていたというのに。

 ああ私はもう柳原君を恋する資格がなくなったのだ。でも、柳原君が好きだ。好きだ。

 芙蓉はその晩寝られなかった。

 翌日、母に言い訳が立たないので、学校に出かけた。

 柳原君は本当に無邪気だった。芙蓉が自分のことを恋い焦がれているとは思いもよらない。芙蓉

はそんなに目立たない子だ。柳原君にとっては、自分は何の存在感もない人間だということは芙蓉

には分かっていた。後ろの方の座席にいる芙蓉に意見を聞いたり話しかけたりすることも一度もな

かった。芙蓉が今柳原君に適する人間でなくなったと死ぬほどの気持ちで落ち込んでいても、柳原

君にとっては、何のかかわりもなかった。芙蓉はただ一人で柳原君に顔向けできないと思い込むだ

けだった。

 昼休み、葵が隣の教室からきて、

 「昨日はごめんね。せんせの所、男子は来ていた?」

と聞いた。

「いや男子は誰も来てなかったわ」

と、芙蓉は簡単に答えた。

「せんせ一人だったの?」

「うん」

「私もせんせに進路相談したいのよ。次の日曜日はせんせの所に相談に行きたいの。一緒に行ってね」

 芙蓉は、一瞬戸惑ったけれど、いつも一緒にこだわりなく行っているのに、断れば変に思われると思って、

「ええ」と返事していた。

 次の日曜日、杉野先生が好きだと芙蓉だけに打ち明けている葵は、タータンチェックのスカート

に白い縄網のセーターを着て、ハーフコートを羽織り、芙蓉を迎えに来た。

 芙蓉は教室ではせんせに会っているものの、家に行くのはあれから初めてなので、気が重かっ

た。芙蓉はあのことは誰にも言わなかったし、せんせも教室では素知らぬ顔で通しているし、自分

もあのことは忘れようとしていた。なんでもなかったのだと思おうとしていた。ましてや先生の好

きな葵には絶対に気取られてはいけなかった。

 葵がインターホーンを押すと、先生が出てきた。

「おお、高橋が来たか。あがれあがれ」と先生は屈託なさそうに言った。

奥から男子の騒いでいる声が聞こえてきた。

 芙蓉は一瞬どきっとなって、靴を脱ぐのを忘れていた。

「おお、紺野もはよ上がれ」

と先生は、芙蓉に向かって何のよどみもなく言った。

 先生はあのことをなかったことにしたいのだということがわかる言い方だった。

 芙蓉も男子の中に柳原がいることを認め、

「はい」と素直に言って靴を脱いだ。

 男子五人のうち三人が、ソファーからあふれて絨毯にじかに座っていた。葵と芙蓉が来ると男子

は絨毯に下り、ソファーを二人に譲ろうとした。芙蓉は慌てて、いえいえ私たちはここがいいです

と部屋の隅に座った。ソファーはあのことを思い出す。それは、きつかった。

「高橋も紺野も、紅茶でいいかい」と、何のこだわりもなくいつもと同じ調子で先生は聞いた。

「せんせ、私がやります」と、葵は立ち上がって行った。芙蓉はいつもなら一緒に立っていくの

に、なぜか体が軽く動かなかくて、座ったままでいた。

 二人が入ってきた時には、騒がしく話していたのに、二人が入っていくと、男子はいやに静かに

なった。

 葵がみんなのお茶を入れなおして持ってきた。

 

杉野先生は、

「うちのクラスは大体志望校が決まって、安心だわ」といった。

「せんせ」とその時、葵が切り出した。

「せんせ、私、薬学やめて、やっぱり学芸学部に行くことに決めました。私小さい子好きだから、

小学校の先生になりたいんだわ」

「ええっ!なに!お前の力なら、薬学、受かるぞ」

「でもあたし、先生になりたいんだもの」

 葵は父を戦争で失い、手に職のない母が再婚して気難し継父に陰で泣きながらつかえているのを

見て、一生やっていける公務員の道を選ぼうと思っていると言っていた。自分等の気持をよくわか

ってくれる杉野先生に憧れ、将来先生と結婚出来ればこれほど嬉しいことはないという夢を語って

いた。先生は三十歳だった。

 芙蓉は葵にその気持ちを打ち明けられていただけに、つらかった。親友を裏切っているような気

持になった。でも、これはつらいけれど誰にも言ってはならないことだと、自分に言い聞かせた。

 部屋の隅から、柳原君の屈託のない笑顔を盗み見ては胸がきゅっとなった。杉野先生は、あのことはなかったようにいつものように、紺野、紺野と平気で呼んだ。

 芙蓉もいつもと変わらないように心がけて、「はい、はい」と答えた。

 葵は、杉野先生に学芸学部に受かるかどうか何度も聞いていた。

 先生は太鼓判を押したし、今井君たち男子も「高橋が通らなくて誰が通るんだ」と言って先生の

証言を裏付けた。

 葵は嬉しそうで、皆のティカップを集めてキッチンに運んだ。芙蓉も立って行った。

葵は、男子が先生のうちに来ている時は、男子に気遣って適当に切り上げる。芙蓉と葵だけの時

は、葵は先生のそばから離れられないらしくなかなか帰ろうとしない。芙蓉はいつもは柳原君を見

てたくて、男子の来ている時は、帰りたくなかった。けれど、今日は柳原君を見ているとつらくな

ってきた。どんなに恋い焦がれても、もう柳原君にふさわしくない穢れた人間になってしまったの

だ。

 芙蓉は、自ら葵を促して帰途についた。先生はバツが悪そうに二人を送り出した。

 

              (2)

 

  芙蓉は秘密を誰にも言えぬまま、受験勉強をした。

 柳原君への想いはますますつのっていくが、自分は穢れた身であるから柳原君に想いを打ち明け

ることなど出来ないと思った。

 せめて、柳原君が東大に行くのなら自分も東京に行きたいと、京都の短大をやめて、東京の短大

に変えた。

 ところが、蓋を開けてみると、柳原君は東大の理3をやめて、京大の工学部にはいっていた。芙

蓉は今更どうすることもできず、母と上京して女子専門の下宿を決めた。葵は地元の国立大学に入

って意気揚々としていた。

 芙蓉の母は、担任の杉野先生にお礼に行かなければならない、あなたが大学にはいれたのは先生

のご指導の賜物なのだからと言った。芙蓉はそんなことはしなくていいと言ったけれど、母は先生

に似合いそうなネクタイを買って、有無を言わせず、芙蓉を連れて先生のお宅に伺った。

 杉野先生は恐縮しきった様子だった。

「いやいや僕の力というより、芙蓉さんがまじめに勉強されたので、通ったのです」と言って、髪

をかき上げた。母の後ろで隠れるように立っている芙蓉をちらっと見た。その時の目は、恐怖にお

びえている目だった。芙蓉もまた恐怖におびえていた。

 葵は葵で、芙蓉が東京に行く前にもう一度先生の所に遊びに行こうよと誘ってきた。芙蓉は断わ

る理由が立たず、葵の後ろについていく羽目になった。

「紺野も高橋も、志望通りの所に入れてよかったな」

「せんせのおかげです」と葵は目をうるませている。

「紺野は初めての親からの独立、それに東京は気候も違うし健康に気をつけろよ」と先生はあのこ

とはなかったことのように、何の感情も表さないで言った。

 芙蓉の方は、なかったことにしようとしても、しきれなかった。あの時の衝撃が、体をさいなん

だ。幸いにして、月のものは順調にやってきた。表面上は何にも変わったことはない。けれど、あ

のことはしっかりと体に刻み込まれていた。もう取り返しがつかない。柳原君に申し訳ない、柳原

君に捧げたかったと身勝手な思いとも思わず、夜中にひそかに泣き崩れた。

 先生のあのかたくなな一線を崩さない態度は、先生にとっては本当に一時の出来心だったに違い

ない。その方が自分にとってもいいことなのだけれど、あまりにも冷静にかたくなにふるまえるの

を見ると、物足りなく感じる時もある。自分はたったそれだけの価値しかなかったのかと。先生の

面前で、我慢せずに泣き崩れて、いたわられたい。

 しかし、気を取り直すと、そんな思いは柳原君を侮辱することだと思うのだった。また、葵の先

生への想いが純粋で激しいだけに、葵に気取られて葵を絶望に落としてはいけないと思うのだっ

た。自分は誰にもそのことは言わない、そして先生も平静で、何事もなかったことにしているか

ら、そうしていれば、世間ではなかったことになり、誰をも傷つけないと思うのだった。理屈はそ

うだけれども、芙蓉はどうしてもなかったことにできなかった。

 桜の花が開くのを今か今かと人々が待ち望み、暖かい春の陽が人々を幸せにする時期なのに、芙

蓉は屈託していた。柳原君が東大に行くという噂を信じて自分も東京の短大に変えたのに、柳原君

は心が変わって京大になった。東大の理3という噂で、医学部に進むのかと思っていると、工学部

に変わっていた。その行き違いは今ではどうもできない。

 芙蓉は身の回りを整えて、東京に移った。

 

                (3

 

 大家さんは、戦争未亡人だった。彼女は敷地内の離れの方に会社勤めの一人息子と住み、広い母

屋の方を三人の女子学生に貸していた。芙蓉は、二階二部屋、下一部屋のうちの二階の東向きの部

屋を借りた。

 あと二人の住人の内、一人は四年制大学の四回生だった。下の階の西の部屋にいるのは、芙蓉と

同じ短大の二回生だった。

 芙蓉はまず隣の部屋にいる四回生の梶原響子さんの所に挨拶に行った。

「まっ、今度来た人?E短大に入ったのですって。上がって」と言っていきなり部屋に招じ入れられた。

 出窓のある洋室にベッドが置かれ、ピンクのフリルのついた小花模様の可愛らしいベッドカバー

が掛かっていた。そのそばには、洋風の背の高い電気スタンドがあった。芙蓉は一人掛けのソファ

ーに座り、響子は勉強机の椅子に腰かけた。

 部屋には香水の香りが漂い、響子は綺麗に化粧していた。

「私これから出かけるの。夜遅く帰ってくると思うけど、気にしないでね。もう私、3年生のうち

にほとんど単位とったので、今年は卒業論文とあと二科目とったらいいの。私フランス語専攻だけど、あなたは何?」

「私は国文です」

「あら、そうなの。折角なら外国語とった方がいろいろ面白いのに」

「はあ」

芙蓉は思ったことをずけずけいう響子に驚き、これが都会というものかと思った。

「これから、あなたにもいろいろお世話になると思うけど、よろしくね」

と言って、コーヒーをサイフォンで入れてくれた。粉のインスタントコーヒーしか家では飲まなか

った芙蓉は、これが上流社会というものかと恐縮した。

 芙蓉は自分の部屋に帰った。芙蓉の部屋は畳の部屋だったけれど、ベッドを置いていた。お化粧

はまだしたことがなかった。

 階下の台所は、三人で共同で使うことになっていた。

 芙蓉はご飯を炊くために台所に降りて行った。

 すると下の住人が、お鍋を洗っていた。同じ短大の二年生の人だった。

「今度来ました紺野芙蓉です。さっきご挨拶に行ったのですけど、お留守だったので失礼しており

ました。同じ大学の国文科に入りました。よろしくお願いしますね」

「あら、あなたが?大家さんには聞いていました。私は英文科ですがよろしくね。私は鈴原美鈴です」

 美鈴は、芙蓉と同じに化粧っけはなかった。

 これから仲良くできそうだった。

 ご飯を炊いて、簡単なおかずを作って食べ、明日の大学への持ち物を整えて、眠りについた。

 しばらくすると、階段をギシギシいわせて上がってくる足音がした。足音と同時に話し声と忍び

笑いの声が聞こえた。すぐに隣の部屋の鍵を開ける音がした。

 ひそひそと話している声が壁を通して聞こえてきた。一人は男性の声だった。

 寝ぼけていた芙蓉の頭はだんだんと冴えてきた。響子とボーイフレンドが、長ーく優しく睦みあ

う声がかすかに聞こえてくる。芙蓉は体がほてってきた。体が何かを求めているようだった。柳原

君を求めていた。響子とそのボーイフレンドのように、二人でやさしく睦みあいたかった。先生の

行為は固く唐突で、一瞬が過ぎるとすぐ拒絶しほうり出されたと感じた。それでいいのだ。それで

自分は救われたのだ。何事もなかったのだ。と、何度も自分を欺こうとした。平静を装っている芙

蓉に、周りの人は以前と同じ感じで接している。忘れさえすればいいのだと芙蓉はなるべくあのこ

とは考えないようにしていた。

 だが響子とボーイフレンドの気配は、体の内から自然に盛り上がってくる自分ではわけのわから

ない欲求を誘い出していた。その瞬間誰でもいい誰かに抱かれたいと感じた。

 翌朝、着替えてミルクを沸かそうと台所に降りると、手前の玄関で響子がボーフレンドを送り出

すところだった。スーツを着た会社員風の後ろ姿のすがすがしい人だった。

 芙蓉の姿を見つけると、響子は

「ねえ、お願い、大家さんには内緒にしておいてね、言わないでね」と言って両手を合わせた。

 芙蓉は「勿論ですわ」と首をかしげてしおらしく応じながら、昨日挨拶に行った時、初めてなの

に部屋に通してくれて、「よろしくね」と言った意味が分かった。

 

 はじめは緊張していた短大にもだんだん慣れてきた。高校までは同じ教室にいれば、先生が入れ

代わり立ち代わり向こうからやってきてくれる。大学では自分の専攻した科目のある教室に自分か

ら移動していく。クラス担任の先生もいないので、初めは頼りなかったが、月日を経るごとにその

自由さが芙蓉を大胆にしていった。

 気の合った仲間で「今日は私設祭日にしよう」などと言って、銀座「みゆき座」に行って名画を

見る。終わったら喫茶店に寄ってケーキを食べておしゃべりに花を咲かす。そんな時の案内役は東

京の子で、ぬくぬくと両親に守られてお小遣いも豊かな、芙蓉から見ると何の苦労もなさそうな子

だった。芙蓉も一緒になってはしゃぎながら、ふっと、この子たちは、何の屈託もないのだろうな

あ、と我に返ったりする。でも、その子らと遊んでいる時は、過去の汚点から解放されていた。

 同じ下宿の鈴原美鈴は、二回生で卒論もあり、新潟の長岡の裕福な農家出身で、堅いぐらいまじ

めな性格の上に、英語をしゃべれるようになり、イギリスに行ってみたいという夢があり、ひまが

あればNHKの講座を聞いていた。

 大家さんは、月に一度三人の下宿生をお茶に呼んでくれた。響子は芙蓉と美鈴にボーイフレンド

が来ていることを内緒にしてねと頼んでくる。美鈴も芙蓉も異存はなく素直に響子の願いを受け入

れた。

 響子は夕方になると念入りに化粧をして長い髪をカールし、真っ赤なハイヒールを履いて出かけ

る。芙蓉はそれを見て自分が田舎者だと思い知らされた。化粧に二時間近く時間をかけている響子

は、きれいだった。いつもきれいにして、会社員のボーイフレンドの退社時間に向けて出かけてい

るようだった。深夜、酔っぱらったような二人のひそひそ声が階段を上がってくる。ドアの閉まる

音がして、かすかに二人の吐息が聞こえてくる。

 芙蓉は柳原君を想った。今響子のように肌近くに柳原君を感じたい。しかしやはり自分はもう柳

原君を想う資格さえないのだと思う。

 夏休み家に帰った芙蓉の所に、葵が真っ先にたずねてきた。葵の大学生活は順調そうだった。ワ

ンゲル部に入り、近くの山をつぎつぎと男女七人の部員で登っているらしい。

「みんな素晴らしい山男よ。受験勉強ばかりしていた高校時代を思うと、もう世界が変わっちゃった」

「へえー、目から鱗!私は女子大だから女ばかりで固まって遊んでる。うらやましい気もするわ」

「芙蓉ちゃんは、未来は病院の奥様だもの。あらくれ男と知り合いにならなくてもいいのだわ」

「あらくれ男って?」

「いやいや、勢いでそんな言葉になったけど、そんなのじゃないよ。みんな紳士的よ」

「そう、いいわね」

 不意にあの時の衝撃と痛みが体を突き抜けていった。

けれど、芙蓉は何事もなかったように葵の前でじっとしていた。

「芙蓉ちゃん、あさってね、今井君たちがせんせの所に集まるらしいのよ。みんな夏休みで帰って

いるって。久しぶりだから行かない?もうめったに全員で会えないもの」

 芙蓉は、行くとも行かないとも言わず、身じろぎもしなかった。

 葵は不思議に思い、

「何か用でもある?」と聞いた。

芙蓉は慌てて、「ううん、行くわ」と言った。

 今会っておかないと、もう永久に柳原君に逢えないかもしれない。

 杉野先生のことはもうこだわらなくてもいいのだ。先生自身があのようなすげない態度をとって

いるのだから、なかったことにしてあげればいいのだ。

 芙蓉の柳原君への想いは、何ものにも代えがたかった。

 芙蓉はその日花柄のプリント地のワンピースを着ていった。芙蓉は響子の真似をして、突然化粧

に時間をかけ香水の香りをほんのり漂わせた。花柄のワンピースは、ノースリーブで谷間が見えそ

うなほど胸のあいたものを着ていった。

 葵はジーパンにTシャツで、ノーメイクだった。

 すでに男子たちは来ていて、話がはずんでいるところだった。

「おっ!久しぶり!」と今井君が二人に声をかけた。

「今井君、大阪はどう?」と葵が聞いた。

「いいよ、大阪は。楽しい所だわ」と、今井君は言って、

「紺野は、東京はどうなんだ」と芙蓉に話を向けてきた。

「東京はやっぱりすごいと思うわ。自由よ。コンサートでもなんでもともかく一流のものが見れるもの」

「一遍行ってみたいな。行ったら泊めてくれる?」

「無理よ。私の下宿は男子禁制」

芙蓉が一番話しかけてもらいたかったのは、柳原君だった。

柳原君は、ただにこにこと笑って、芙蓉を見ていた。

杉野先生は緊張した面持ちで目を宙に浮かせていた。

芙蓉は勇気を出して言ってみた。

「ねえ、柳原君の京大はどんな感じなの?」

「そんなことお前わかってるじゃないか。超秀才の集まりだから、奇人変人の集まりよ。なあ」と

今井君は柳原君に向かって言って一人で悦に入っていた。

「いやいや、そんなことはないよ。普通だよ。でも、びっくりするような頭のいい奴がいっぱいいるわ」

「そうなの、素晴らしいわね」と言って、芙蓉は顔を赤らめた。

 初めて口が利けたのだ。せんせとは何もなかったのだ。せんせも忘れてほしい。忘れるというよ

りも、誰にも口外しないというよりも、そもそも何もなかった。そうでないと、自分の気持ちを柳

原君に打ち明けれない。

 芙蓉は次第に明るさをなくしていった。

 葵がワンゲルの話をとうとうと語っていて、話題がその方に向いたのが救いだった。

 柳原君とは、それ以上の会話はなく、葵に促されて家に帰った。柳原君は高校時代と何の変りも

なく無口でニコニコしている。服装も変わっていなかった。芙蓉は、柳原君の気を引きたいばかり

に、響子の真似をして、露出いっぱいの洋服で行ったことを恥じた。柳原君は外見などどうでもい

いのかも知れない。それよりも、頭のいい女の子が好きなのかもしれない、という気がした。しか

し、柳原君が好きだという気持ちはますますつのり、どうすることも出来なかった。柳原君が、早

い目に京都に戻ったと聞いたとき、芙蓉も家でいる理由が薄れて、東京に帰った。

 

                            (4)

 

 帰ってみると、響子がもう東京に帰っていた。響子は北陸のホテルの娘だった。景気がいいの

か、いつでも送金を頼べば、追加の金子が送られてくるということで、はやりのブランド物のバッ

グや、靴をたくさん持っていた。就職も必要ないのだけれど、ボーイフレンドと離れたくないの

で、デパートに就職を決めていた。

「ねえ」と響子は、まだ二人だけしか帰ってきていないことをいいことに、台所の椅子に腰かけて、芙蓉に語り掛けた。

 芙蓉は沸かしていたやかんのガスを切り、もう一つの椅子に腰かけた。

「芙蓉さんは、まだボーイフレンドいないの?」

「いないわ。見ての通りでございます」とおどけて見せた。

「早い目に帰ってきたから、いい人が出来たのかと思ったわ」

「いいえ」と言いながら、柳原君と対で話し合うこともできないことを寂しく感じた。

「じゃあ、まだ、男性としたこともないの?」

芙蓉は、とっさに、

「ええ」と答えて、急に体の中心が痛むのを感じた。

 やっぱりあれは、男性と交わったということになる。生まれたままの何も知らない無垢な体ではないのだ。

「芙蓉さん、早くボーイフレンドつくりなさい。男性を知るってことは、この上もない快楽よ」

「はあ」という芙蓉の顔は上気してきた。

 三日にあげず来るボーイブレンドの低い声の睦言は、もう声すら覚えてしまった。

 聞き耳を立てているわけでもないのに、その声は芙蓉の耳に刻まれていた。

 響子のあえぐ声もかすかな音楽のように、夜のしじまに忍び込んでくる。やはりそれは素晴らし

いことに違いない。芙蓉は、せんせとの何の前ぶれもない、堅く恐ろしいものに、防ぐ暇もなく貫

かれた記憶から自由になれなかった。そして、そのあとのせんせの固い態度も、それがいいんだと

わかりながらも、納得できなかった。

 芙蓉は、響子は本当に幸せな人生を享受していると感じた。

 それに比べると、自分の青春は悲しい。大好きな柳原君にも負い目から近づくことができないのだ。 

 芙蓉は、沸かしかけたお湯をもう一度ガスで沸かし、響子に紅茶を出し、

「響子さん、いろいろ教えてくださいね」

 と口走り、思ってもいない言葉が自分の口からほとばしり出たのを、自分で驚いていた。

 大家さんが二人ではお淋しいでしょうと言って、お茶しにいらっしゃいと誘ってくれた。

「あなたたちは、女の子でも東京にまで出して学問させてくれるご両親がいて、また、戦後の民主

主義の時代に大学に行く年齢になってお幸せよ。私なんか、お嫁に行くことだけしか道はなくて、

いい縁談が来たからと女学校も辞めさせられて、嫁いだと思ったら、夫

は戦争に。この家を、焼け野原に立ててもらって、お姑さんたちが亡くなり収入がなくなったけ

ど、そのあとを皆さんに借りてもらってようやく生きているわ。それを思うと皆しっかり勉強して

自分で生きていくだけのお金を稼げるようにしてね。応援するわ」

「はい、おばちゃま。頑張りますね」と響子が言った。

 芙蓉はびっくりした。夜ごとボーイフレンドといちゃついている響子は仕事する人からは一番遠

い人だと何となく感じていた。しかし、それはそれこれはこれと分けて考えるのが正しいのかもし

れないと思った。芙蓉は、響子は現代のトップをいっている女性かもしれないと思った。

 美鈴が長岡からお土産を持って帰ってきた。芙蓉は久しぶりに部屋に上がってもらって話を聞い

た。

「夏休み中、ずっと英語の本を読んでいたんよ。私はイギリスに行けるようになりたいの。イギリ

スって文明の進んだ国よね。行ってみたくない?」

「私は外国のことなんか考えたこともなかったわ。日本のことしか知らなかったし、それに、なん

かわからないけど、女一人では危ないようで恐ろしい気がするわ」

「両親もそういうの。結婚してから二人で行ったらって。でも私、男の人に全然興味ないのよ」

「ええ?今まで好きな人なかったの?」

「うん、ないわね」

 芙蓉は、響子も葵も自分も、男性にとらわれているのに、美鈴のようにさっぱりと生きれる人が

いるのに驚いた。

 芙蓉は、浮かれた連中と、やれ銀巴里だ、やれジャズ喫茶だと、せんせとのことを忘れたいばか

りに遊び歩いた。

 東京生活も一年を過ぎ、二回生の秋になって卒論に取り掛かろうという時に、葵から手紙が来

た。

 

 芙蓉ちゃん私本当に嬉しいことがあったの。大学の方は順調に勉強が進んでいるわ。わからない

ことが出てきた時は、ずっと杉野せんせの所に行って、教えていただいたり、相談に乗ってもらっ

たりしていたのよ。芙蓉ちゃんに告白していた通り、私高校三年生の時からずっと杉野せんせが好

きだったのよ。憧れていたわ。でも、せんせの方は私をずっと女と感じてくれなかったの。私、誰

も来ていないせんと二人だけの時には、暗くなるまでせんせのそばを離れなかった。でも、せんせ

は帰れともいわないけど、私の期待には無関心な様だった。

 私、もう我慢できなくなって、自分からせんせのソファーに移ってせんせにもたれたの。

せんせはようやくわかってくださったのか・・・。私嬉しかった。天にも昇るような喜びに満たさ

れたわ。私せんせに結婚してとささやいたのよ。せんせは分かってくださったのか、大きく頷いて下さった。

 誰にもこの喜びを言えないけど、芙蓉ちゃんだけは喜んでくれると思って。

 ごめんね。こんなおのろけみたいなこと言って。

 

 芙蓉は葵からのこの手紙を読んで目の前が真っ暗になった。あの時のことが身に迫ってきた。葵

にも同じことをしてあげたのね。私にしたことは覚えているの?葵には結婚の約束してあげたの

ね。寂しい!悔しい!芙蓉は葵の手紙を放り出して、机に突っ伏して泣いた。泣いているうちに、

芙蓉はあれはどうしてもなかったことにしなければいけないことなのに、自分は何を思っているの

だろうと気が付いた。

 

 芙蓉はすぐにペンをとって返事を書いた。

 

 葵ちゃん、おめでとう!せんせと結ばれたのね。それは記念する日だわ。2年もよく辛抱できた

わね。でも、かいがったじゃない。せんせと結婚できるんだもの。おめでとう!心からおめでと

う!

 

 芙蓉は簡単にしたためて、返事を送った。

 そしてせんせに処女を奪われたことは、ますます口外してはならないと思った。

 

 芙蓉は歯を食いしばって、卒業論文を書き上げた。

 四月から駅ビルにある旅行会社に就職が決まっていた。両親は、早く帰ってきて医者の結婚相手

が見つかりそうなので、お茶やお花を習い花嫁修業をしてもらいたいと望んでいた。

  芙蓉はせんせのことが割り切れず、事情を知らない葵がせんせとの情交を、多分楽しそうに打ち

明けてくれるだろうと思うと、まだ故郷に帰る気になれないのだった。

 響子は4月からデパートに就職することに決まっていた。

 美鈴は短大卒業後、もう子供英会話教室で働いていた。

 三人がお休みで階下の台所にいて、久々にしゃべっていると、大家さんが現れて、お茶にいらっ

しゃいと誘ってくれた。

「今日はたまの日曜なのに、圭太はお仕事よ。手持無沙汰なの。お二人とも卒業おめでとう。お祝

いにケーキ買ってきたのよ。召し上がって」

「おばちゃま、ありがとうございます。どうかこうか卒業できましたのよ」と響子が愛想よく言った。

「芙蓉さんも、いいところに就職出来てよかったわね」

「はい、おばちゃまの薫陶のおかげです」

「いやあだ、薫陶なんて。冷やかさないでよ。恥ずかしいわ」

「すみません」と芙蓉が頭を下げると、みんなは笑った。

 ショートケーキを4人の女性でいただいた。

 響子はふと、リビングにパープル色の綺麗なワンピースが掛かっているの見て、

「おばちゃま、きれいなワンピース、どこかお出かけ?」と尋ねた。

「おばちゃまは、高英男のコンサートに行くの。今度の日曜にね」と言って、頬を赤らめた。芙蓉

から見ると、大家さんはすごく年で、もう女として感じなく、「おばちゃま、おばちゃま」と言い

ながら、もうおばあちゃまのように感じていたが、頬を赤らめる大家さんに初めて女を感じた。

 響子はボ-イフレンドに会いに行く時間が気になったのか、二人を促して母屋に引き上げた。

 その夜、ふと目が覚めると、響子の部屋から英語混じりに話す男の声が聞こえてきた。響子も英

語でしゃっべったりしていた。三十分もすると、まったく声が聞こえなくなった。

 翌朝芙蓉がミルクを温めてミルクパンを持って台所を出てくると、響子と外人の若者が二階から降りてきた。

 正面からばったり会ったので、響子はうろたえた様子で、「トムです」と紹介した。芙蓉はその

容姿の美しさに打たれて、しどろもどろに「紺野芙蓉です。よろしくお願いいたします」と片言の

英語で言った。

 二階に戻ってきた響子は、芙蓉の部屋をノックした。

「芙蓉さん、ちょっと入っていい?」

「はいどうぞ」と言って芙蓉は響子を迎え入れた。

「さっきの子はね、英会話学校の講師なのよ。あと六か月で契約が終わってアメリカに帰っちゃう

の」

「響子さん、今までの方は?どうなさったの?」

「辞令が下りて、北海道に行ってしまったのよ。寂しいの、私」

「まあ、響子さんはついて行かないの?」

「せっかく就職が決まったし、北海道のような寒いところは嫌だわ。もう少し都会生活を満喫した

いの」

「私は、あの方と結婚するとばかり思っていたのよ」

「結婚はもう少し先でいいわ」

「響子さんて進んでる。うらやましいわ」

「そうかしら。私はその時その時の自分の気持ちに忠実に生きているだけよ」

「そういう風に言い切れる響子さんは素晴らしいわ」

「ねえ、これからトムがちょくちょく来ると思うけど、よろしくね」

「はい」

 響子は安心したように自室に帰って行った。

 芙蓉は響子の割り切った生き方を見て影響を受け始めていた。もともとかけ離れて優秀な柳原君

に自分から好きだと言えなくて、何とか私というものの存在だけでも気づいてほしいと、先生の所

に行っていたのだけど、先生に奪われてしまって、ますます柳原君は彼方の人になってしまった。

柳原君が好きだという気持ちは変わりなく、苦しいぐらいに燃えさかっているのだけれど、もうど

うすることもできないのだと観念するのだった。

 幸い裕福な山の手のお嬢さんたちと、屈託のない遊びをしていると、その時だけでもせんせとの

ことを忘れられた。

 

               (5)

             

 いよいよ、四月一日になり、社会人となって入社式があった。旅行会社の中ではトップクラスの

一流会社に入社したのは、晴れがましいことだった。本社で十日間の研修を終えてから、店に出

た。

 店にいるのは、男性が三人、女性も芙蓉を含めて三人だった。新人の芙蓉は、朝一番にパンフレ

ットの詰まったキャスター付きの棚を外に運び出した。開店と同時に航空チケットを買いに来る人

や、ツアーを申し込む人で忙しかった。店の男性はみんな既婚者だった。新入社員の芙蓉に優しい

人ばかりだった。分からないことが生じたときには、手取り足取り教えてくれた。芙蓉は安心しきっていきいきと働いた。

 ある日勤めから帰ってくると葵から手紙が届いていた。芙蓉は思い切って封を開けた。

 

 芙蓉ちゃん、勤めはどんな?卒業おめでとうね。私の方はまだ相変わらずゼミやら講義やら、小

学校の先生になるために必要でピアノを習ったり、忙しくしています。

 この間久しぶりで今井君にあったら、柳原君の話が出て、柳原君が京大の同じ工学部の才媛と付

き合ってるって聞きました。あのシャイな柳原君がねえ、びっくりよね。これは想像だけど、彼女

の方から接近されたのじゃない?でもいい話よね。応援するわ。

 聞いて!私ね、せんせとずっといい関係が続いているのよ。長い間私の気持ち気づいてくれなく

て、自分から先生を誘ってようやく関係を持てたから、嫌われないように毎日でも会いたいのだけ

ど、気持ちを抑えて一週間に一度だけたずねていくことにしているの。せんせの都合のいい時聞い

てね。

 せんせは優しいわ。せんせに身を預けてじぃっとしていると、私の体がとろけ出してしまいそう

なのよ。私、せんせ大好き。長ーく、恍惚の空を泳がせてくださるもの。芙蓉ちゃんも早く恋人見

つけてね。芙蓉ちゃんは堅物だから、好きな人の話も聞いたことがないし、ちょっと心配。芙蓉ち

ゃんもこんなことを知ったら、人生がばら色に変わるわよ。

 

 芙蓉はまた手紙を放り出した。せんせはあの時はそんなじゃなかった。突然だった。無理やりだ

った。何の前触れもなく痛みが走った。あとは優しく介抱して私が困らないように元の通りに整え

てくれたけど、虹色の夢の世界をさ迷わせてはくれなかった。

 私が町では有名な紺野医院の一人娘で跡を継ぐものと運命づけられているからなの?

 芙蓉は響子とボーイフレンドが長い間睦言を交わしていることを考えた。

 響子もきっとその時、極楽を見ているのに違いないと思った。

  ゴールデンウィークは忙しくて、休日出勤だった。代休をとった芙蓉は誰もいない台所で夕食の

支度をしていた。その日は五月だというのに朝から曇っていた。ご飯が炊きあがったころ急に雷が

鳴ってものすごい雨が降り出した。芙蓉は恐ろしい怪物を見るように台所の縁側に出てガラス越し

に空を見上げた。稲光と同時に雷鳴がなった。芙蓉は慌てて台所に隠れた。それと同時にビシャッ

と音がして、芙蓉は近くに雷が落ちたなっと思った。耳を抑えて頭を抱えしゃがみこんだとたん、

またビシャっという雷鳴がした。それと同時に玄関の引き戸をがたがたといわせる音がした。恐怖

におののきながらも、いつまでも音はやまないので、玄関に出て、「どなたですか?」と大声で言

った。

「トムです」という声が雷鳴に混じって聞こえた。

「トム?」

「はい、トムです」

「今錠を開けます」

 戸を開けると、トムがずぶ濡れの姿で頭から水を垂らしながら入ってきた。

 トムが戸を閉めるとまた雷が鳴った。

「ちょっとお待ちになって、今タオルとってきます」

 芙蓉は階段を駆け上がり、バスタオルを取ってきてトムに渡した。トムはぼとぼと水滴の落ちる

髪の毛を拭き、濡れた体を洋服の上から拭き、短パンから出た脛をふいた。

「ここでは寒いわねえ。お上がりになって」

と言って芙蓉はトムを部屋に導いた。

「すみません」とトムは言いながら、芙蓉についてきた。

芙蓉は、濡れた洋服をそのままにしておくわけにもいかず、どうしようと思った。ふとバスローブ

があることに気づいた。芙蓉はタンスから洗いあがったばかりの真っ白のバスローブを出し、

「これに着替えてください。濡れたお洋服は下の浴室で乾燥機にかけますから。着替え終わった

ら、声をかけてくださいね。私は廊下に出ますから」と言った。

トムは頷き、

「サンキュー」と言ってバスローブを受け取った。

 廊下に出ると芙蓉は急に正気になり自分のしていることに震えた。

「着替えました、これ」と言ってトムが戸を開けて濡れた洋服を突き出した。

「はい」と震え声でいい、芙蓉は濡れたものを受け取って階段を下りた。

芙蓉は、洗面台でぐしょ濡れの洋服を絞った。長袖Tシャツと短パンとブリーフの三枚だった。芙

蓉は男性のパンツにさわるのは初めてだった。父のは母が洗っていた。芙蓉は違和感を覚えなが

ら、固く固くしぼって、乾燥機に入れた。

 芙蓉が部屋に帰ると、トムは窓ガラスから庭の木に降りしきる雨を見ていた。女物のサイズの小

さいバスローブから、にょきっと出たトムの脛や腕が見えた。肩幅の広いがっしりした後ろ姿が芙

蓉の目には新鮮に見えた。芙蓉は、トムのわきに立って同じように窓の外の雨を見た。

「通り雨だったのね。もうすぐ止みそうね」と芙蓉は言った。

「そうですね、雨宿りすればよかった」

「響子さんは?」

「響子さん、今日はデパート早く上がれるから食事しようと言ってたのに、デパートに迎えに行く

と、急に閉店まで居ることになったので、部屋で待っててと言います」

「そうだったの」

「途中で雨に降られて、走ってきたのですが、来てみると合い鍵を持っていないことに気が付きま

した」

 それで玄関をどんどん鳴らしたのだなと思った。

「でも、大丈夫です。洋服は一時間もあれば乾きますわ」

「すみません」

「私ちょっと下でコーヒー作ってきます」

 芙蓉は雨に濡れた体は寒かろうと気づき、熱いコーヒーを作って持って上がった。

トムはまだ外を見ていた。芙蓉はさっきと同じように、がっしりした大きな後ろ姿に魅入られた。

 「どうぞコーヒー」と言って芙蓉は勉強机の上にお盆を置いた。

 勉強机の椅子にトムを座らせ、自分も折り畳みの椅子を広げて座った。

 壁にくっつけた勉強机に直角に向き合って座ると、本当にトムとの距離が近かった。ちんちくり

んのバスローブを着ているトムは、ともするとはだけそうになるバスローブを掻き合わせ掻き合わ

せしていた。どう掻き合わせても、トムの胸毛が見える。芙蓉はドキドキし自然に目をそらせた。

「トムさんはいつ日本に来たの?」

「およそ一年半前です」

「日本に知り合いがいたの?」

「叔父が仕事で会社から派遣されて日本にいたので、それで来たのです」

「日本は好きですか?」

「好きです好きです」

「どして?」

「僕は、小さいとき日本の絵本『桃太郎』見たのですよ。桃太郎が好きで日本も好きになりまし

た」

「うそ、うそ、桃太郎だって?」

芙蓉は笑い転げた。

「うそでありません。ほんとうです」

「本当?本当なの?」と言ってまた一層芙蓉は笑い転げた。

芙蓉は気持ちがおかしくなっていた。力強い後ろ姿に魅了されていた。サイズの合わない小さすぎ

る衣服からにょきっと出た筋肉質の脛や腕。そして生まれて初めて見た胸毛。その上にトムはまだ

若くてハンサムだった。

 余りにも笑い転げたので、簡易な椅子が安定を失ってグラッとなった。

「危ないですよ」と言ってトムがとっさに立ち上がり、芙蓉を抱き止めた。芙蓉の頬にトムの胸毛

が当たった。芙蓉は動けなくなりトムの胸にじっと頬を当てていた。するとトムが急に強く芙蓉を

抱きしめて来た。はっと我に返った芙蓉はトムから離れようとしたが、トムは芙蓉を軽々と抱き上

げるとベッドまで運んで行った。

 響子のことが一瞬頭をよぎったが、響子とトムのささやき声が耳に聞こえてきて、芙蓉の期待は

ますます膨らんでいった。肉体の奥深くから、思いもしなかった欲望が膨らんできて、芙蓉の肉体

はトムを求めていた。

 トムは芙蓉のワンピースを脱がせ、下着をはぎ取っていったが、芙蓉は何の抵抗もできなかっ

た。力強くバスローブを脱ぎ捨てたトムは、全裸の芙蓉をしっかりと抱きしめた。芙蓉の耳に響子

のあえぎ声が聞こえてきた。響子を裏切っているという思いがちらっとよぎったが、自分では意識

していなかった熟した肉体が、トムを待っていた。芙蓉は目を閉じじっとして、トムのなすがまま

にトムの肉体を受け入れていった。 

 事果ててしばらく放心状態でいると、トムが起き上がり、ちらと腕時計を見た。

 芙蓉は急に現実に戻り、響子の帰ってくる時間を計った。急いで衣服を身に着け階下に降り乾燥

機から衣服を取りだしてきた。そして、元の姿に戻ったトムを台所に導き、自分は部屋に戻って鍵

をかけた。

 しばらくすると、響子のにぎやかな声がして、二人が階段を上がってきた。

 芙蓉はなにも手が付かず、ぼんやりとベッドに腰かけていた。

 響子の部屋から漏れ聞こえてくる声は、いつもと変わらないのであった。

 芙蓉はふっと柳原君のことを思った。

 忘れられない初恋の人柳原君からますます遠く、自分は罪深い人になったのだ。自分は柳原君に

匹敵できる知能も容姿もない人間で、自信が持てなくて、片思いのまま自分から好きだと打ち明け

ることは出来なかったかもしれないけれど、せんせのことがなかったら、まだ、自分は生まれたま

まの清らかな体で、柳原君に打ち明ける資格だけはあったかもしれない。けれど、あのことが自分

を打ちのめした。そしてトムへと、純潔を守らなかった私は、ますます柳原君から遠くなった。柳

原君が京大の才女と恋愛関係にあると聞いて、自分の事は棚に上げてがっかりしたけれど、それが

トムへと走る言い逃れにはならない。

 芙蓉は、いつまでもベッドに腰かけたまま眠ることができなかった。

 トムはそれ以来下宿に来なくなった。響子の方が外泊するようになっていた。トムと部屋をシェ

アしていた友達が、ガールフレンドができて出て行ったので、響子がトムの部屋で泊まることにな

ったらしい。

 芙蓉は、トムによって知った快楽が忘れられなかった。しかしトムは二度と現れない。トムはあ

の時のことを一時の迷いと思っているのだと考えざるを得なかった。響子の方がよかったのだ。芙

蓉も響子に隠れて響子を裏切るようなことを重ねることは出来なかった。それでも、もう一度トム

が訪ねてきてくれたらと、待つ心があった。しかし、トムはきっぱりと下宿に来なくなった。

 芙蓉はツアーの申し込みに来る人や、チケットを取りに来る人に、必要以上に愛想を振りまいて

接し、トムのことを忘れようとした。

 それから間もなくトムはアメリカに帰ったらしい。響子は寂しい寂しいと芙蓉に訴えた。

 芙蓉も寂しくせつなかった。けれど響子とは絶対に寂しさを分かち合えない。分かち合えるもの

なら響子と抱き合ってトムのいない寂しさを分かち合いたかった。しかし、トムとの事は自分の中

で一生背負っていかなければならない秘密であった。

 

                            (6)

 

 「寂しい寂しい」と言っていた響子は、その年の暮れには寂しいと言わなくなった。同じ百貨店

でバイヤーをしている男性と結婚することになっていた。

 下宿の台所でたまたま響子と芙蓉と美鈴が一緒になった時、

「私ここを来年の三月に出るのよ。結婚することになったの」と響子が言った。

芙蓉は驚いて、

「ええっ、どんな方と?」と聞いた。

「同じデパートに努めている人よ。彼は江戸っ子でね。何代か前までは、自分の家から駅まで全部

自分の土地を踏んで行けたという地主だったらしいわ。土地はだいぶ手放して駅前にマンションを

建てているの。そこの一室を私たちの新居にしようとちょうど改装が終わったところなの。彼は慶

応出ててね。すてきな人よ」

「もしや北海道に行かれた方?」

「ヤダ、芙蓉ちゃん、あの人じゃないわ。もしやもしや、興信所の人がここに来たりしても、その

こと口外しないでね。美鈴ちゃんもお願いいたします」

「勿論です。そんなこと言いませんよ」と二人は固く約束した。

「私もね」と美鈴が切り出した。

「私も実は三月でここを出て、アイルランドに行くの。まだ誰にも言ってなかったけど」

「ええっ!美鈴ちゃんも!」

「私イギリスに行きたいと思っていたけど、両親がどうしても結婚してから二人で行ってくれと言

って、一人行くことは許してくれなかったの。仕方なく結婚することにしました」

「まあ、男性にはあまり興味ないと言っていたのに?」と芙蓉はびっくりして聞いた。

「それは今も同じだけど、外国に行くチャンスだもの。同じ長岡の人で、製薬会社に勤めていて、

一月からアイルランドに転勤なの。実家に仲人さんが持ってきた話なんだけど、両親が家柄がいい

と大乗り気でね。お見合いしたの。外国に行けるから結婚を受け入れたわ」

「まあ」と言って芙蓉は絶句した。二人が結婚していく。美鈴は誰の手にも触れられてない清らか

な身体を持って。響子は絶えず男に抱かれていないと寂しいと言いつつ、そしていつも男性から満

足な愛撫を受けつつ、それを隠し持っていても尚且つ幸せな結婚を勝ち取っている。

 自分はいったい何なのだろうか?せんせとのことを、不運にも交通事故にあったようなものだ、

自分は潔癖なのだ、とも居直れず、傷を抱えたまま、それでもなおあきらめきれず、柳原君を思い

続けている。心は無垢でも、自分は処女を失った体なのだから絶対に彼とは結ばれることができな

いとあきらめようとしつつ、なお彼をあきらめきれない。そしておそらく自覚のないまま性に目覚

めた肉体が、目の前のトムを呼び込んだに違いない。そしてえも言われぬ快楽の中に長い時間漂わ

せてもらった。こんなことをトムのような行きずりの人によって知った自分が、まともな幸せな結

婚をすることは出来ないだろう。

 芙蓉は響子や美鈴が羨ましかった。

 響子や美鈴の幸せそうな話に、芙蓉も表面上乗って、きゃっきゃっと盛り上がっていた。その

時、玄関の戸が開いて、大家さんが入ってきた。

「あら、あばちゃま、綺麗だわ。何かいい所に行ってらしたの?」と響子が聞いた。

「ちょっとね」と言っておばちゃまは上気したような顔になった。

「おばちゃま、高英男?」

「今日は違うの」と言ってますますぽっとほほを赤らめて、

「彫刻展に行ってきたのよ」と言った。

「ロダン?」

「いいえ、そんな巨匠じゃない。百貨店の中の小さい展覧会よ」

「よかった?」

「ええ」

 そういいながら、何か奥歯にものの挟まったような言いにくそうな雰囲気を醸していた。   

美鈴がミルクティを入れてきた。

 おばちゃまは、顔を赤らめながら、

「ありがとう」と言って紅茶を飲みつつ、

「実はねえ」と切り出した。

「息子の圭太がねえ、結婚するの」

「まあ、おめでとうございます」

「それでねえ、離れを若い者たちに明け渡したいの。結婚は来年の六月なんだけど。June bride 

とか言っちゃってね。そんなで、私の住むところがなくなってね。この母屋を私が住もうと思うのよ」

「まあ、おばちゃま、ちょうどいいところだったわ。私も三月に結婚するのよ。おばちゃまに言い

に行こうと思っていたところなの」

「まあ、それはおめでとうございます。どんなかた?」

「同じ百貨店に勤めている方です」

「まあ、素敵ね。恋愛結婚なのね。お祝い会しなくっちゃ」

「おばさま、私も来年の三月で子供英会話の仕事辞めて結婚してアイルランドに行くので、三月末

か四月にはここを出ることになりました」

「まあ、お二人とも、おめでたいわねえ。四月ごろまで居ててくださっても大丈夫よ。芙蓉さんは?」

「私はまだ結婚の話はないんです。でも下宿は早い目に探します」

「すみません。無理言って」

「おばちゃま、ここで一人でお住みになったら、広すぎて鼠にひかれそうですね」

「それがねえ」と言いにくそうにしながら、

「実はねえ、彼氏が来るの」

「ええっ!彼氏って、おばちゃまの?」

「ええ、それで今日見に行って来たのよ」

「まあ、素晴らしい!芸術家なのね!」

 四人はおばちゃまを冷やかしつつ、夕暮まで楽しく過ごした。

 芙蓉はおばちゃまの年を考えた。四十半ばかも知れない。あばちゃまはきっと二十年近く男性と

交わることなく過ぎてきたのだろう。あばちゃまをお婆さんのように思っていたけれど、そうでは

ないのだ。おばちゃまのあのてれようや、のぼせた顔つきは少女のようだ。同棲したらおばちゃま

はどんなに光り輝いていくのだろう。男性の愛を肉体にいただいて女性はいきいきと美しくなって

いくのだと思った。

 

             (7)

  

 年を越し春が来た。響子は結婚して出て行った。美鈴もアイルランドに行く準備で、長岡の実家

に帰った。学生生活の延長だった女の園の下宿は解体した。

 芙蓉はまだ結婚できず、一DKのマンションに移った。これからは一人でしっかりと生きていかな

ければならないと決心していた。会社の窓口業務には慣れ、芙蓉を名指して来るお客さんも出てき

た。芙蓉にこっそりと外国土産を渡してくれる人もあった。芙蓉はどのお客さんにも愛想よくにっ

こりと笑って接した。

 勤務を終えて夜マンションで一人でいると、寂しさがこみあげてくる。どうしても忘れられない

柳原君。柳原君は殿上人で、才能のない自分は自分を卑下していて、決して自分から自分の気持ち

を打ち明ける勇気はなかった。心は枯れ木のようだったのに、体は柳原君に向かって、自分では気

づかないうちに、全開していたのだ。せんせは私の自覚のない欲望する姿に気づいて、せんせ自身

も欲望の極に達してしまったのだ。それにしてもせんせは厳しすぎる。ただ一度で、あとは取り付

く島もなく何もなかったように振舞うのだから。葵が私の親友であったのを知っているはずなの

に、葵には繰り返し優しくしてあげて、結婚まで約束している。せんせの気持ちが分からい。私が

家の病院を受け継がなければならない運命にある人だからか。親戚一同が町の名士と言われるから

か。

 柳原君が才女と恋に落ちているという噂を聞いて、気持ちが折れてしまった。そして、葵が言っ

てくる長ーく天上をさ迷う有頂天の喜びも知りたくて、また響子の毎夜のあえぎにも好奇心いっぱ

いで、自分の方からトムに身をまかせてしまった。こんなことを経験してしまった自分は、柳原君

にはふさわしくないと思い続けた。

 芙蓉には、柳原君が自分のことを何とも思っていないということもわかっていた。それでもな

お、柳原君のことを想い続けた。

 その柳原君が才女と一緒にアメリカの大学に留学するらしいという噂が、葵を通して聞こえてき

た。芙蓉は目の前が真っ暗になった。

 葵は芙蓉が柳原君を好きだということを知らなかった。高校でも十年に一度排出するかしないか

の秀才と言われている柳原君については、誰もが彼の一挙手一投足を注目して噂にした。芙蓉は過

去に起きた二度の過ちで、柳原君にはどうあがいても近づけないと思っていたのに、才女とのアメ

リカ留学の話を聞いて心がくずれ折れてしまった。

 しかし、芙蓉は職場では明るくふるまった。男性の上司には気に入られ、女性の同僚にも仕事を

どんどんこなすので重宝がられた。お客さんも気軽さから芙蓉のいる窓口に寄ってきた。

 芙蓉が短大を卒業して勤め始めた時から、月に一度芙蓉の窓口にきて函館行きの航空券を買って

いくサラリーマンがいた。丸の内のオフィスに勤めている人らしかった。滝沢さんという人だっ

た。上司は前からチケットをよく買いに来ている滝沢さんと顔馴染みだった。

 ちょうど芙蓉が下宿を出てマンションに越したころ、滝沢さんがチケット代を払うお札の上に、

そっと一枚の白い紙を置いた。それでニコッと笑って、白い紙を見て目で合図してきた。芙蓉は慌

てて目を落とした。紙に「読んでね」とだけ書いてあった。芙蓉は慌てて事務服のポケットに紙を

隠した。

 マンションに帰って急いで読むと、食事にお誘いしますと書かれていた。来週の土曜日の七時に

銀座でお待ちしていますと書いて、待ち合わせ場所を詳しく地図入りで書いていた。そして、自分

は大手の商事会社に勤めていること、大学はW大を出て年齢は三十歳、函館の出身と書いてあった。

 芙蓉はいつも清潔感があっていい人だと思っていたけど、過去のことがわだかまっていて返事が

できなかった。柳原君にまだとらわれていて、心が動かなかった。滝沢さんは、それからも何度か

白い紙をお札の上に置いていた。芙蓉は滝沢さんを振り続けていたが、柳原君が才女と一緒にアメ

リカに留学すると聞いて、わずかな期待も失ってしまい、心が真っ暗な闇に閉ざされた。その時、

微かな光が滝沢さんからさすような気がして、芙蓉は返事をずっとしなかったのに、「お誘いあり

がとうございます」と小さい白い紙に書いて、お釣りのお札の上に置いた。

 

 会ってみると滝沢はスマートな人だった。銀座の一流のフランス料理店に案内してくれた。

「紺野さんが返事をくれな

いので僕はがっかりしていたよ。もう一度、誘ってダメだったらあきらめようと思っていたんだ」

と滝沢は言った。

 芙蓉は食事をいただきながら、上目使いに滝沢を見上げながら、

「ごめんなさい。誘っていただいて嬉しかったのですけど、私みたいなもの、会ってみてがっかり

されるんじゃないかと思って、お返事ができなかったのですわ」

「僕は恋人がもういるのかと思ったよ」

「いいえ、恋人なんて、私みたいなものにいませんわ」

「それは僕にとっては有難いことだなあ」

 そう言って滝沢はワインを勧めた。

 芙蓉は勧められるままに飲んだ。

 少し酔が回ってきた。

「ねえ、滝沢さんは函館出身なのね。私まだ行ったことがないの。函館ってどんな所?」

「いい所だよ。魚介類がおいしいし、町はエキゾチックな感じが何となくするし、函館山の夜景

ね。きれいだよ。俗に日本の三大夜景って言われるほどだもの。今度連れて行ってあげる」

「ほんと?ありがとう。嬉しいわ」

 芙蓉は上気したまなざしで滝沢を見つめた。滝沢の顔を正面からまじまじと見つめたのは初めて

だった。色が白く眉毛は濃く、若さが内面からあふれ出ていて、普段の印象よりずっとハンサムだ

った。その時ふと滝沢の顔に、トムが重なった。一瞬、トムが教えてくれた恍惚がよみがえり、芙

蓉の内部が震えた。

「銀座をぶらぶらしてみようか」と滝沢が誘った。

「ええ、いいわねえ」と芙蓉は応じて二人は肩を並べて銀座を歩いた。

「あら、滝沢さん、今日は満月よ。見て!」と言って芙蓉は空を指さした。

「ほんとだ、綺麗だね。いい夜だ」と言って滝沢は風に向かって面を上げ、悠々と歩いた。

十一月初旬の暖かい夜だった。柳は揺れていた。芙蓉の長い髪も揺れている。滝沢がそれとなく手

をつないできた。芙蓉の気持ちは最高潮に高まってきた。

「マンションまで送っていくよ」と言って、滝沢はタクシーに向かって手を挙げた。

タクシーを降りると部屋まで送っていくと滝沢が言った。芙蓉は軽く頷き狭い部屋に案内した。

 二人は何も言わなかった。コートを着たまま長い間抱き合っていた。芙蓉の頭の中に柳原君が現

れた。柳原君も才女ときっとこうしているんだわ。柳原君に操をたてて身動きの取れなかった長い

時間を、もう捨てよう。すべてを忘れて自分の欲望のまま生きよう。響子のように!葵のように!

 芙蓉はコートを脱いだ。滝沢もコートを脱いだ。芙蓉はセーターを脱いだ。滝沢もジャケットを

脱いだ、そうして芙蓉が最後にためらったとき、滝沢が待ちきれないように、芙蓉を脱がせた。

 嵐のような揺らめきだった。その間も柳原君の面が頭をよぎった。この時柳原君は芙蓉にとって

天上の神と変わった。神聖そのものだった。芙蓉の手には届かない神になった。神様なら全てのことを許してくれるはずだ。

 芙蓉は神聖な神を心に抱きつつ、滝沢の動きにつれて、響子のように甘いあえぎ声をあげていた。

 それから三日にあげず柳沢はたずねてき、芙蓉の夜は果てのない歓びにしびれ、放心してベッド

の上に横たわることが多くなった。一人っきりの夜夜の寂しさから逃れることができた。

 やがてお正月になり、お正月休みは二人ともそれぞれの実家に帰った。芙蓉は滝沢のことは母に

も父にも言わなかった。芙蓉が婿を取って病院を継がなければならないことを、芙蓉は忘れてはいなかった。

 再び桜の季節が巡ってきた。滝沢と芙蓉は新郎と新婦のように手を取り合って上野の公園に花見

に行った。桜の下は立錐の余地もないくらい花見客で埋まっていた。滝沢は端の方にちょっとした

空き地を見つけて、お花見シートを広げた。二人は芙蓉が作ってきたサンドウィッチを食べた。桜

の花びらが二人の頭上に舞い落ちてきた。二人は笑いあいながらお互いに花びらを取り合った。二

人がビールを開けて飲み始めた時、

「ねえ、芙蓉さん」と滝沢が切り出した。

「重大な話があるんだけど、僕、5月にミュンヘンの支社に転勤するんです。結婚して一緒に行っ

てもらえませんか」

「ええっ!突然な!」

「桜の花の下で言いたくて、もうちょっと前に言われていたんだけど、今日まで待っていたんだ

よ」

「まあ!ミュンヘン!そんな遠い所、父と母にも相談しないと」

「勿論そうですとも。了解を得ておいてくださいね」

「ええ」

 芙蓉は婿を迎えて先祖代々の病院を継がなければならない。婿を迎えて病院を大きくしたいとい

う父の念願をかなえてあげたい。柳原君と才女の噂を聞いて落胆し、破れかぶれの気持ちになって

滝沢に近づき、滝沢によって夢の世界を体験させてもらった芙蓉は、もう滝沢から離れなくなって

いた。しかし、ミュンヘンと言われたとき、はっと自分の立ち位置に気づいた。ついて行きたい、

けれど、一人娘を可愛がって育ててくれた父に申し訳ない。

 上野のお花見から帰る道中ずっと悩んでいた。

 滝沢は、芙蓉が一緒に来てくれるものだと思っている。気持ちが高揚しているようだった。

 「さっ、こっちへおいで。後片付けなんか置いて」

 風呂上がりの滝沢は、ベッドに横たわって芙蓉を呼んだ。

 芙蓉は魔法にかかったように滝沢の言うままに滝沢のそばに横たわった。

「一緒に来てくれな」と滝沢は耳元でささやいた。

「うーん」とあいまいに言って芙蓉はいつもの甘いあえぎ声を上げた。

 滝沢は脱力して満足していた。腕枕をしている芙蓉に、ミュンヘンの新生活についての抱負を語

っていた。

 その時、インターホーンが鳴った。芙蓉が慌ててガウンを着ようと起き上がると、滝沢は出なく

ていいとささやいて、芙蓉を引き止めた。二人が布団の中でじっとしていると、執拗にインターホ

ーンが鳴った。たまりかねて出ようとする芙蓉を、滝沢がしっかりと抱きとめ制止していると、あ

きらめたのか鳴らなくなった。

 芙蓉はこんな夜に今まで訪ねてきた人もいなかったので、気味が悪かったが、滝沢が

「大丈夫だ、僕がいるから」と頼もしく言うので、ほっとした。

 

 次の日の朝、店に出て広告の棚を外に出して整えていると、女の人が近づいてきた。その人は

「紺野」と書かれた名札をじろっと見て、

「芙蓉さんですね」と言った。

 芙蓉が怪訝な顔をして、

「はい」と答えると、

「滝沢について話があります」と言って、

「今夜は何時に上がりですか?」と聞いてきた。

「六時です」

「では、その時あそこで待っていますから」と通路の隅の方を指さした。

芙蓉はあっけにとられ、滝沢に連絡も取れず、ずるずると退社時になり、待ち構えていた見知らぬ

女に捕らえられえて喫茶店に連れて行かれた。

 席に着くと、

「私は滝沢の許嫁です」とその女は言った。

 センスのいい眼鏡をかけている美しい人だった。芙蓉はびっくりして、声も出なかった。

「私は生まれ落ちた時から、滝沢の許嫁なのよ。私の母と修ちゃんのお父さんが同じ村の幼馴染

で、同じ年に相前後して私と修ちゃんが生まれたから、親同士二人が相談して許嫁と決めたので

す。私は小さい時から、あんたは修太朗さんのお嫁さんになるのよと言われて育った。だから修太

朗さんの所に遊びに行っても、誰も止めないの。高校を卒業して修ちゃんが大学に行くために上京

する前日、私はいつものように修ちゃんの勉強部屋でお話していました。その時私は生まれて初め

て、男女のことを知ったのです。ショックでした。それ以来私は大学の休みに修太朗さんが帰省し

てくるのを心待ちにしていたんです」

 そこまで言って、息が続かないかのように、オレンジジュースを飲んだ。

「学生の時はまだ時々帰ってきてたけど、勤めだしてからは盆暮れに一、二日帰るだけ。そして、

今度、修太朗さんのお父様からお詫びが来たの。婚約解消してくれと。私ももう三十よ。煮え切ら

ない修太朗さんを待って待ってしてこの年になったのよ。訳を聞いたら、あなたと結婚してミュン

ヘンに行くというじゃないの。許せない。そんなことしたら、私は自殺してやる」

 自殺と聞いて芙蓉に震えが来た。

「そんなことなさらないで下さい。ミュンヘンの話昨日聞いたばかりです。行くとも行かないとも

まだ分からないのです」

「威張ってるのね、勝ち誇っているのね。修太朗さんに求婚してもらって、行かないってことはな

いでしょう。あなたはおごってるわ。私はどうなるの?もう結婚なんてできないわ。三十よ。修太

朗さんとこんなことになってなければ、まだ結婚できるかもしれない、この年でも。諦めもついた

かもしれない。でももう私は修太朗さんのものになってしまったの」

 そう言って相手は芙蓉をきっとにらんだ。芙蓉は震えた。

「あなたとミュンヘンにいったら、私は自殺してやるからね」

 芙蓉はますます恐ろしくなった。

「私、くにに帰りますので、自殺なんて言わないで下さい」

「本当なんですね。一時逃れを言っているのではないですね」

「ええ、私は医者の婿を迎えて病院を継がなければならない運命ですから」

 とっさに言葉がすらすらと出ていた。

「お約束します。どうか。自殺だけは思いとどまってください」

「本当ですね。今の言葉は修ちゃんに伝えますからね」

「はい」と言って芙蓉は席を立った。

 滝沢さんにも暴かれる過去があったのだ。過去というより現在進行中の。芙蓉は嫉妬にさいなま

れた。あんな美しい人なのになぜ私を選んだのだろうと悶々とした。

 その夜遅く何も知らない滝沢が芙蓉のマンションに来た。いつもと違う芙蓉の態度に滝沢は芙蓉

を問い詰めた。

 芙蓉は、許嫁が来たことと、自分は病院の後継ぎとして婿を迎えなければならないことを打ち明

けた。滝沢は、芙蓉の親を説得に行きたいと熱心に芙蓉を口説いた。芙蓉は自分のふしだらを親に

知られたくなかった。滝沢は、許嫁の寿美子が上京してきているのも知らなかった。親父が、問い

詰められて芙蓉のことをしゃべったに違いないと、芙蓉にわびた。寿美子のことはちゃんと解決す

るし、芙蓉の両親にも許可をいただくから、何が何でも、自分と結婚してほしいと言った。芙蓉は

嬉しかった。

 滝沢が何も心配しなくていいと芙蓉を抱きしめた時、芙蓉はぐったりとなって抱きしめられてい

た。頭は何も考えられなくなって、ただ滝沢の激しい動きにつれて極楽で揺蕩っていた。その時ま

たもやインターホンが鳴った。芙蓉が我に返って起き上がろうとすると、また、滝沢が芙蓉を押さ

えて制止した。まだ四、五回インターホーンが鳴ったが、その後鳴らなくなった。滝沢も芙蓉もす

っかり興をそがれていた。

 寿美子を説得して函館に帰らせたと言っていたのに、四月の半ばになると、またインターホーン

が鳴った。修太朗は連休明けにミュンヘンに発つので引き継ぎに忙しく、芙蓉の所に訪ねて来るの

も難しくなっていた。

 芙蓉はドアを開けて外に出た。寿美子が立っていた。

「ちょっと、お話したいんで、出てきてくれませんか」と寿美子は言った。芙蓉はコートを着て寿

美子の後に従った。寿美子は近くの喫茶店に入った。

「修太朗はあなたをミュンヘンに連れて行かないし、あなたとも結婚しないと約束してくれまし

た。そのことをあなたに伝えるとも約束してくれました。あなたはそのことを修太朗から聞きまし

たか?」

「は、はい」

芙蓉は聞いていなかった。でも、勢いに押されてはいと答えていた。

「私は修太朗に呼ばれなくても、あとから行きます。その時あなたがいたら私はその場で死にます

からね」

「わかりました。どうか死ぬのはやめて」

「修太朗とあなた次第です」

「はい」

 芙蓉はそれだけ聞いて逃げるように帰ってきた。

  翌日出社してすぐ店長に五月いっぱいで退職を願い出た。

  いよいよ旅立ちの三日前になった夜、滝沢はやっと芙蓉を訪ねてきた。今夜が最後のチャンスに

なると覚悟していた。芙蓉は実家に帰って家を継ぐ決心をしていた。許嫁の寿美子が現れていなか

ったら、芙蓉はまだ東京で働いて、休みになるとミュンヘンに飛んで行ったことだろう。しかし、

寿美子の自殺するという脅しは芙蓉の心を震撼させた。寿美子の様子からしてしかねないと思っ

た。滝沢はまだあきらめきれないのか、寿美子が落ち着いたら結婚しようと言っていた。 

「私、寿美子さんを犠牲にしては幸福になれないの。半年だったけど、あなたが教えてくださった

歓びは何ものにも代えられないわ。滝沢さん以上にわたしを歓ばせてくださる人はいないと思う。

あなたのことはこれから先どんな方に巡り合っても忘れられないと思う。好きよ。大好きよ」と言

って滝沢の胸の中に飛び込んでいった。滝沢はしっかりと受け止めてくれ、長ーく虹色の雲の上を

泳がせてくれた。芙蓉は離れがたくしっかりと滝沢にしがみつき頬を胸にくっつけていた。

 やがて滝沢はミュンヘンに去った。芙蓉の体は抜け殻のようだった。芙蓉はまるで実体のない肉

体を抱いて動いているように感じながら、最後の勤務に励んだ。

 

               (8)    

 

 芙蓉は勤務先のみんなに惜しまれながら故郷に帰った。父母はようやく都会に見切りをつけて帰

ってきてくれたと大喜びだった。

「あなたのいなかった四年間、火が消えたように寂しかったわ。お父さんも帰ってきてからレコー

ドをかけて寂しそうだった。帰る決心をしてくれてありがとう」と母は言った。

そしてお茶とお花の先生の所に習いにやらせた。

「紺野病院のお嬢ちゃんなのね。東京から帰ってらっしゃったのね」とどこに行っても可愛がられ

た。愛欲におぼれていた東京の生活は誰にも感づかれなかった。

 葵は卒業して、市の小学校の先生になっていた。着々と自分の思い描いた道をそれず、努力し

て、なりたい学校の先生になっていた。それは見事な生き方だった。せんせとの仲はずっと切れ目

なく続いていて、とても幸せだわと言う。せんせが自分の欲望を満たしてくれる時の行為の優しさ

を親しい芙蓉にだけのろけた。それを聞く度に、古傷が痛んだ。あの時の花瓶に挿した水仙の清楚

な姿が目に浮かぶ。十八の誕生日を祝ったばかりだった。せんせに犯されていなかったら、柳原君

に接近できたかもわからない。響子の行為に興奮してトムや修太朗との愛欲の道にそれたりはせ

ず、ひたすら清らかな体と心のまま、柳原君に対して自分を貶めることなく、あこがれを清らかに

抱き続けることができただろう。柳原君が才女と仲良くなっていて、自分の入りこむ余地がないと

しても、清い体で思い続けることと、処女をなくした肉体で思い続けることとはわけがちがうと、

悔やんでいた。でも、それはもう忘れなければならないことなのだ。せんせと自分だけしか知ら

ず、母も葵もそんなことはつゆ思わないことだったのだ。それをないことに出来たらどんなにか安

楽だろう。でも、せんせは知っている。

 芙蓉は間違った道に足を踏み入れてしまったと思った。その道は極彩色の豊かな道だったけれ

ど、これからは間違わずに正しく暮らそうと思った。

 そんな時、父が芙蓉に縁談を持ってきた。同じ医大で学んだ人の甥で、家業のパン屋は兄が継ぐ

ので、弟の医者の方は、婿養子に行ってもいいと言っている人だった。

「もう三十七歳でお前と一回りも違うのが気にかかるがどんなものだろう」と父は言う。母は養子

に来てくれるというだけで気に入って、

「それぐらいの年の離れた夫婦は沢山いますよ。お父さんと私だって九つ違っているけど、うまくいってますもの」と言って、急いで芙蓉の見合い写真を撮らせた。

 お相手の方の小さいスナップ写真を見せてもらい、芙蓉はそれでいいと思った。

 双方が気に入って、話が決まると噂は町中に広がった。その時葵が飛んできて、

「芙蓉ちゃんその方の噂知ってる?何人も看護婦さんに手を付けている人らしいよ。噂では子供ま

でおろさせたと言うわよ」と忠言してくれた。

「へえ!そんな噂知らなかった。本当だろうか?」

「火のない所に煙は立たないって言うじゃない。よく考えた方がいいわよ」

芙蓉は葵の言葉にうなずきつつ、自分の過去を思うと引け目を感じ、遊んでいてくれた方の方がい

いと思うのだった。 

 芙蓉は、ともかく夫を助けていい妻になり、父のため先祖のため病院を大きくさせようと思っ

た。

 加賀富雄さんという方と、芙蓉は数回デートした。さっぱりした気性の人だった。芙蓉は一も二

もなくお話をお受けした。相手の方も芙蓉を気に入っていた。

 結婚式は新郎の少しでも早くという希望で、暑い盛りではあるけれど、八月十日になった。富雄

のお誕生日が八月二十日なので、一つでも若いうちに式を挙げたいと言った。芙蓉は自分の友達の

手前、一歳でも若くと気づかってくれてたのだと思った。


 父は芙蓉のためにマンションを借りてくれた。下見に行ってインテリアをあれこれ考えていた時に、ふっとせんせとのことが目に浮かんで消えた。一瞬痛みが走った。芙蓉は大きく首を振って、

その影を振り払った。

 花嫁支度は着々と進んでいた。そんな時葵が芙蓉を海に行こうと誘ってきた。とても嬉しいこと

があるので、聞いてほしいと言う。芙蓉には大体想像がついたが、葵の希望を断れなかった。

 葵と芙蓉は麦藁帽をかぶって砂浜に座っていた。打ち寄せる波が心地よい音を立てていた。

「ねえ芙蓉ちゃん、私もね、せんせが結婚してくださることになったのよ、お式の日も決めてくだ

さったからもう安心だわ」

「まあ、よかったわね。あなたは本当に幸せは人だわ」

「そうよね。ずっと思い詰めていて、せんせがなかなか私を認めてくださらなくって、つらかった

けど、せんせがようやく私の方を向いて下さってからは、ずっと優しくしてくださるのよ。ほんと

に途切れることなく愛してくださるの」

「幸せね」と芙蓉はかみしめるように言った。

芙蓉は葵のことを本当に幸せと思っていた。好きな人を待って待って、その好きな人に清らかな体

をささげ、ほかの誰をも知らず好きな人から手ほどきを受けて開花していってる。やがて赤子が生

まれても、葵の愛はせんせから離れることはないだろう。赤子を抱きながら、葵の目はいつもせん

せに注がれている。そんな幸せがあるだろうか。

 せんせとのことに一生こだわり、誰にも言えず、せんせがどうしてあの時そんなことをしたの

か、本当の心を言ってくれることもなく、「申し訳ない」と土下座したのをどう考えたらいいのか

も分からない。自分にも非があったと思うこともあるので、せんせを恨む気はなかった。ただせん

せの気持ちがわからずに知りたいと思うだけだった。芙蓉はあの時もただ柳原君に心身とらわれて

いただけだった。もしせんせのことが自分も好きだったら、葵の話を聞いて葵を嫉妬しただろう。

けれども芙蓉には、葵に対して秘密を持っているうしろめたさはあったけれども、嫉妬することは

なかった。

「それからねえ、びっくりしないでよ。せんせはこの夏に東京の教員試験を受けて東京に出ていく

んだって。私にも東京の小学校の教員試験を受けるように言うの。秋に結婚式をして、せんせのマ

ンションで暮らして、来年の春には東京へって」

「まあ」

「でしょ。どうして?ここで今まで通りに教員していてもいけるのに、なんで東京に移住するのか

さっぱりわからないのよ。聞いてもあいまいなの。東京で一段上の教員を目指すっていうけれど、

私は普通の高校のせんせでいいと思うのよ。でもねえ、せんせがそういうのであれば、せんせの希

望をかなえてあげなければね。私はどんなことでもせんせについて行くの」

「いいわねえ」と芙蓉は本心から葵の気持ちを讃えた。

一方せんせが東京に行くのは、自分がせんせの近くに帰ってきたからかもしれないと思った。せん

せも決してあのことを忘れていないのだ。

 芙蓉はもうこだわることはやめようと思った。

 打ち寄せる波のざあーという音に混じって、貝を拾う子供たちのざわめきが聞こえた。葵の麦藁

帽の水色のリボンが海風にひらひらと揺れていた。

 家に帰ると、母は結婚式に招待する名簿づくりに一生懸命だった。

「あら、芙蓉、いいところに帰ってきてくれたわ。芙蓉のお友達は誰々よぶの?」

「葵ちゃんと今井君でいいわ」

「杉野先生は?」

「せんせはいいわ」

「先生もお呼びしたら?先生のおかげで大学にいけて、加賀さんもいい大学出てるのだなって認め

てくださったのよ」

「どうしようかなあ」

 芙蓉は今聞いたせんせと葵の結婚を考えた。葵だけ呼んでせんせを呼ばないのは葵にとって不自

然かなあと思った。

「お母さんが呼んだ方がいいと思ったら、入れておいて」

「呼んだ方がいいと思うの、入れておくわね」

「そうしておいてね」

 芙蓉も母の名簿づくりの手伝いをした。

 

               (9)

 

 結婚式の日が来た。

 結婚式は町で一番の由緒あるホテルで行われた。そのホテルは昭和天皇が戦後全国を回られたと

き、お泊りになったホテルだった。

 芙蓉の結婚式の招待客は五十人を超えていた。

 葵も今井君もせんせもいた。

 町の名士の居並ぶ前で、芙蓉は新郎と壇上に座っていた。

 芙蓉は、紺野病院を盛り上げていくことを一心に考えていた。この人の、いい妻になり、いい助

手になって先祖代々の紺野家を盛り立てていくのが使命だと思った。芙蓉は隣にいる富男の横顔を

見上げ、決心を新たにしていた。

 華やかな打掛をまとった芙蓉から、もうすでに堂々とした若奥様の風格がにじみ出ていた。

 芙蓉から立ち昇るオーラは、会場をうめつくし、名士たちは我を忘れて箸の手を止めて芙蓉に見

とれていた。

 芙蓉は遠くの方で豆粒のように小さい「せんせ」を見つけた。

 式が終わると、芙蓉と富男は皆に見送らて、芙蓉にとっては未知の世界、新婚旅行へと旅立って

いった。

 

 

  

 


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