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西行の和歌(年高みかしらに雪を積もらせて・・・)と自作小説 7

               老人述懐 年高み頭(かしら)に雪を積もらせて         古りにける身ぞあはれなりける                            西行    (聞書集)   佳寿(かず)は姿見の前に立って最後に帽子をかぶった。 さあこれでお出かけの準備は整った。 帽子を被るのは、白髪染めに行きそびれて、くっきりと白髪と黒い染毛の部分が分かれるのが見苦しいからだ。   駅に着いた。   佳寿はホームをよろよろと歩いた。 自分でも信じられないほどよろめいた。 なぜこんな歩き方になるのだろう。 こんなはずはないと思って普通に歩こうとするが、どうしても普通に歩けない。 ホームの狭い部分では、線路に落ちるのではないかと、細心の注意が必要だった。   佳寿は老人優先座席に座って目を閉じた。   龍宮城で遊んでいた過去の想い出が蘇ってきた。 高膳に盛り付けられて運ばれてきた数々の御馳走。 鯛や平目の刺身、水底の洞穴で醸造された酒にあわび。 それらを捧げつつ運んでくれた妖精たち。 龍宮城の神様が与えて下さった天の羽衣の着物を着て、 妖精たちと踊り暮らした日々。   ある日はこの妖精と、またの日はあの妖精とと、水を切って踊り暮らした日々。   佳寿は今白髪を頂き、足元おぼつかなく街をさまよう。 妖精たちが泡粒となって水底に消え果てた龍宮城を胸に秘めて。  

西行の和歌(事となく君恋渡る橋の上に・・・)と自作小説 6

    高野の奥の院の橋の上にて、月明(あ)かかりければ、 諸共に眺め明かして、その頃、西住上人京へ出にけり。 その夜の月忘れ難くて、また同じ橋の月の頃、 西住上人の許(もと)へ言い遣わしける       事となく君恋渡る橋の上に          争うものは月の影のみ                    西行                 (1157・81152 日本古典文学大系・歌番号)   京子はタワーマンションの 12 階の寝室の大きなガラス窓から夜空を見上げた。 雲一つない空に満月が輝いている。 今夜の満月はローズムーンだ。 京子は振り返り、昨日まで達子と一緒に寝たダブルベッドを見た。 達子の抜け出た跡が、蝉の抜け殻のように盛り上がっていた。 他に寝る場所がなかったから、二人は一つのベッドに横たわっただけのことだが、 気の合う者同士、夜を徹して美術について語り明かしたのは楽しかった。 達子は、妖精を描くのに夢中だった。 京子は絵筆一つ握ったことはないけれど、達子の情熱に引きずり込まれた。 達子は言った。 「ラヴェルの『夜のガスパール』の『オンディーヌ』というピアノ曲を聞いたのよ。その時私の頭にビビット来たの。オンディーヌというのは妖精の名前なんだけど、人間に恋をするのよ。その恋は破れるの。そうしてオンディーヌは泡となって湖に消えていくのよ。その泡となって消えていくところを私は描きたい!」 ああなんて美しい情景なんだろうと京子は思った。 達子自身がオンディーヌになったみたいに美しかった。 京子は、額にかかった達子の前髪を掻き上げたいような気持になった。 そして赤子のように柔らかい唇に唇を重ねたいような気になった。 心臓が一瞬ドクッと音を立た。 そして京子は辛うじて自制した。 達子が残していったパジャマを掛布団の下から取り出すと、 かすかに化粧の香りがした。 京子は枕元からスマホをとると、達子にラインした。 <寝室の窓から、ローズムーンの美しい光が差し込んでいます。昨日までここにいたあなたと、この月を一緒に見ることができないのは、なんと寂しことでしょう。月はむなしく貴女 のいないベッドを照らしています> 京子はしばらくためらうよう

西行の和歌 (恋 数ならぬ心の咎・・・)と自作小説 5

  恋   数ならぬ心の咎になし果てじ        知らせてこそは身をもうらみめ             西行                (653・7645)(日本古典文学大系・歌番号)   日出子は繁華街にあるジャズ喫茶のドアを恐る恐る開けた。 今日は来ているかしら、来ていないかしら、と、胸がドキドキする。 細長い店内の一番奥の薄暗い所にたむろしている人がいるなら、 その中に谷川さんはいる。 奥にうごめく人影がなければ、がっかりするが、居れば居るで、心臓が張り裂けそうになる。 日出子は、ドアを開けると一瞬で人影のうごめくのを見た。 ああ来ていると思った瞬間、悦びよりも緊張が心を占めた。 さりげなく奥から一番遠い入り口近くの席に座った。 日出子はレモンスカッシュを注文して、英語の問題集を開いた。 目は英語の上をなぞっているが、頭には何も入ってこない。 谷川洋二郎のことで頭がいっぱいだった。   谷川洋二郎が生徒会長に立候補した。 講堂でした選挙演説の時に、途中で言葉が詰まって、一秒ほど沈黙した後に、 「あっ、忘れた!」と言って頭をかいた。 その時、日出子の心にビビッと電流が走った。 素朴な人、可愛い方と日出子は思ってしまった。 それ以来日出子は勉強が手につかなくなった。 期末試験の勉強も手つかず、物干し台に上がっては月を眺め星を眺め、洋二郎のことを思った。 洋二郎は、仲間とたむろして遊んでいるにも関わらず、東大を受けるという噂が流れた。 日出子は洋二郎が好きだと女友達にも言えなかった。 お好み焼き屋で生計を支えている母子家庭を卑下していた。 大学教授の父を持つ洋二郎に告白できる身分でないと、心まで閉ざそうとしていた。 だが抑えても抑えても、洋二郎が好きで好きで抑えきれなかった。 洋二郎に自分のことを気付いてもらいたいと、せっせと喫茶店に通ったけれど、洋二郎に自分の心は通じなかった。 たむろしている連中の中の一人が、たまに帰りがけに日出子に気づいて、 「おっ、大内も来ていたのか」と声をかけるぐらいだった。 日出子は洋二郎が振り返りもしないで出ていくのを、いつも見送るのみだった。   日出子は洋二郎に告白する勇気はなかった。

終活と写真 淡路花博 ジャパンフローラ2000

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              左/私・右/故・東さん 終活と世間様が声高にしゃべるので、影響されやすい私は、まず、山のようにある写真から始末始めました。 捨てて捨てて捨てて、破って破って破って、段ボール2個分はゆうに捨てたでしょう。 私の手をかいくぐって、ぽろっと床に落ちていた一枚の写真。 拾い上げ懐かしさがこみ上げてきました。 大好きだった東さん 2013年85歳でなくなりました。 お子さんはいなく、自身が子供のような方でした。 夏の真っ盛り、二人はホテルに泊まって 淡路2000年の花博に出かけたのでした。 翌朝観光船に乗って、明石海峡大橋の下をくぐりました。 貸してくれた船長さんの帽子を 粋に斜めにかぶってはしゃぐ東さん おしゃれな人でした。 東さん73歳・私62歳 過去の幸せだった時空が薔薇色に広がり 捨てられない1枚となりました。

平将門(たいらのまさかど)の首塚

平将門の首塚が東京のど真ん中の大手町にあると知って驚いた。  平将門と言えば、崇徳天皇、菅原道真とともに日本の三大怨霊に数えられているのに、今では、パワースポットとして、観光バスが寄ったりするそうな。1000年の時を経て、解釈は変わる。 土一升、金一升、のような土地を、首塚にとられているのは惜しいと思ったか、何回も首塚をのけ、有効にビルを建てたり活用しようとしたが、そのたびに、人が何人か死んだり、病気になったりした。戦後GHQが来て、丸の内、大手町周辺の戦災復興都市計画で区画整理の邪魔になるとして、首塚を除けようとしたとき不審な事故が相次いだので、取りやめになったということだ。 かくして、今も都心の一等地に首塚はある。 朝敵となって、戦に負けた将門の生首は、京都でさらしものになった。しばらくすると、生首は東に向かって空中を飛んで行って、今の塚のある場所に着地した。 嗚呼、空中を京都から東京まで、飛んで行っている将門の生首を想像してみてください。 今のように高いビルはありません。日本の牧歌的な美しい野や畑や川や山の上を、将門の生首が風を切って飛んで行くのです。その速さは、マッハいくらでしょう。 絵になります。美しい絵になります。 将門の首塚の場所 東京都千代田区大手町1丁目2番1号

2018年 マウイ島 滞在日記 8

  ★16日目 (8月31日・木曜日)   25  ヤシの木の剪定           朝、ヤシの木を剪定する職人が来た。あの高い木をどうやって剪定するのだろうと、常々私は思っていた。クレーン車ででもなければ怖くてできるはずがないと思うけど、クレーン車で届くのだろうか。私は興味津々だった。 興味津々の割には観察がお粗末で説明がいまいちだと思うけれど、四角い、椅子の座布団の大きさ位のものを幹に取り付けて、その上に人が乗り、自分の足をひょいとゆすってその座布団様のものを持ち上げて、だんだん上にあがっていくのである。胴体の方に命綱をつけていたかどうかわからないが、ともかく天辺までそうやって登って、ヤシの木と一緒に風に揺られながら枝を落としていく。ゴンドラに乗っているわけでもなく、ただ身一つでヤシの木に蝉のようにへばりついて、いらない葉を切っていくのである。 人間とは、何とすごい知恵を発揮するものなのかと感心した。 高いヤシの木で人間は小さく見える。そこでゆらゆら揺れながら作業する姿は青い空と相俟って詩情を感じるほど美しかった。 6,7本のヤシの木を、二人の男の人が剪定し、午後3時 頃仕事を終えた。 (ここの、人がヤシの木に登っていくところは、自分でも訳が分からないので、説明できないが、ともかく、一切機械は使わないのでした)   ★17日目 (9月1日・金曜日)   26  フリーマーケット マウイ島でいるのは今日で終わりだ。明日はホノルルに飛び、ホノルルで二泊してから日本に帰る予定になっている。 母親が、マウイ大学の校庭でやっているフリーマーケットに行こうと言った。三人はまたレンタカーに乗り込み、小一時間の道を行った。 マウイ大学の校庭はギラギラと太陽が降り注ぎ暑かった。海辺でないので風が吹かなかった。汗をふきふき、店を見て回った。母親は手作りの木の実に練り込まれたキャンドルをお土産に買っている。私も買った。 結構高い値なのに、そのお土産品は人気があり次々売れている。娘は、こんなの作るの材料費安いのに儲かるわね、こんなのをすればいいのだと言いつつ、何個も買っている。 又、本物のヒトデの貝殻を、壁に貼るのだと言って買っている。 プリントの絵も好きならしく、絵の出店に寄って何枚も見るが、高いと言って手を出さない。 ブラブラ見ていると、老年の婦人に日本語で呼び止められた。あまり

2018年 マウイ島 滞在日記 7

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  ★13日目 (8月28日・火曜日)   23  雀の事故死 リビングの網戸を開け放していると、スズメが一羽二羽入って来て床をちょんちょんと飛んで歩くのが可愛くて見ていた。 そこまではよかったのだが、三羽四羽五羽と入って来て、部屋の中を飛び始めた。丁度顔の高さの所に飛んでくるので、不意を喰らってキャーキャー言いながら、外に追い出そうとした。ほとんどの雀が出て行った後に、一羽だけがまだ飛んでいる。顔に当たりそうになったので、キャーと言って追い出そうとしたら、ガラス戸があまりにもきれいに磨かれていたので、雀は慌てたのかガラス戸に衝突してしまった。 音を立てて雀は落下した。いけない、死ぬかもしれない、と、とっさに思った。雀は足を上に向けて、あお向けになり動かない。でも、気絶しているだけで、今に起き上がって飛んで行ってくれるかもしれないと、じっと見守った。何とか、気絶から覚めて、くるっと体をひっくり返して飛んで行ってくれという祈りもむなしく、雀は微動だにしなかった。 死んでしまったのだ。私は悲しかった。ついさっきまで生きて飛んで騒いでいたものが、一瞬のガラスへの衝突によって、あっという間に死んでしまったのだ。雀にはまだまだ楽しい生があっただろうにと思うと、可哀そうで仕方なかった。 しばらく待ったけれども生き返らなかった。可愛い小さい目が静かに閉じられていた。薄い柔らかそうな瞼が閉じている。新聞紙で掬い取ると、自然に雀が裏返った。羽が美しい。日本の雀よりも茶が薄い、緑と黄みがかった茶色の羽はつやつやとしている。まだ生きているように。             あまりにも悲しい出来事だったけれど、取り返しがつかず、私は新聞紙の上の雀を、木の下の茂みの中に置いた。雀の姿は、叢に隠れて見えなくなった。何とも言えない悲しみが湧き上がって来た。   ★14日目 (8月29日・水曜日)   23  海亀の甲羅干し         海亀が、コンドミニアムの前のちいさい砂浜に上がっていた。宿泊客が入れ代わり立ち代り崖の上から覗いて騒いでいる。 私も見に行った。目の前に一メートルもあるような大きな亀がいるのには感動した。多分この亀は、砂浜から二メートルぐらいの所で泳いでいて水面に見え隠れしていた亀だろう。 母親がここで亀と並んで泳いだと嬉しがっていた。自分がガバッと顔を上げたとき亀も同時に頭を

2018年 マウイ島 滞在記6

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  ★10日目(8月25日・土曜日)   ⒙ 母親(私の娘)が来る ハリケーンは熱帯低気圧に変わったらしい。午後4時ごろ母親がホテルに到着するという。私はほっとした。孫と二人きりだったのは昨日の夜だけだった。ホテル泊まりだから、晩御飯も苦労なくホテル内で食べられた。             孫は午前中に泳ぎに行った。私も今一度と泳ぎに行った。相変わらず、太ももどまりである。 海から上がって、孫が借りていた私の背丈よりも大きそうなボードを、私が脇に抱えて歩いていると、ホテルの入り口のベンチに座っている人たちの中の外人のおじさんが、何か私に聞いた。「それはあなたが使っていたのか?」と聞かれたような気がしたので、とっさに「マイ グランドサン」とだけ言った。すると、向こうはまた何か言った。「自分で使ったのかとびっくりした」と言ったのか「自分が使えばいい」と言ったのか、はたまた「孫に持たせろ」と言ったのかわからなかったので、ただ笑って通り過ぎた。愛想のない日本人だなと思われたかもしれない。軽いジョーク的な会話ぐらいしたいものである。情けない。 午後、母親は日本で運転したことのないような、滅茶苦茶大きいレンタカーを借りて、到着した。ハリケーンはそれたので、予定より一日早く、3人でホテルを出た。            コンドミニアムに帰ってみると、テラスに出ていたテーブルや椅子は部屋に運び込まれていた。そしてヤシの枝や木の枝が折れて地面に落ちていた。被害はそれくらいで、相変わらず、コンドミニアムには人々が大勢泊り、賑やかにプールや海やバーベキューで楽しんでいた。   ★11日目(8月26日・日曜日)   ⒚ 砂浜は事件か? 今朝は、ハリケーンの影響か、ゆうべからの雨が降り続いていた。海は黒っぽい緑色になっている。そのうち海の上の空は明るい灰色に変わって、いろいろな鳥の声が聞こえてきた。鳥も楽しそう。 10時頃、孫と母親がカーナパリの海に泳ぎに出かけた後のことだった 。 目の前の芝生の砂浜に下りる階段の所で、二、三人の男女があわただしい動きをしている。階段の上から、砂浜を覗き込んでいる人や、スマホを耳に当てている人がいる。何事だろうと、リビングの中から見ていると、警官が二人やって来て砂浜に下りて行った。しばらくすると「 FIRE 」と背中にかかれている T シャツを着た人が四人現れ

2018年 マウイ島 滞在日記 5

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  ★7日目(8月22日・水曜日)   ⒗ ハリケーン 朝5時ごろ、私のドコモの携帯がものすごい音で警報音を鳴らした。私はびっくりして飛び起きた。隣の部屋で寝ていた父親も起きて来てリビングをぶらぶら一周して、「何だろう」と私が慌てているにかかわらず、無言でまた寝室に入って寝てしまった。孫は気がつかないのか、起きてさえ来ない。 H.I.S の事務所に携帯が故障して電話した時、大型ハリケーンが近づいているので注意してくださいと言っていたのを思い出した。 警報音にビビった私は、誰も相談する相手がないので、日本時間を確かめてから、娘がまだ起きている時間と目星をつけ、娘に電話をかけた。娘はネットで調べてくれ、やはり前代未聞の大型ハリケーンがハワイに近づいていると言った。 私はすぐ、ジャズで有名なニューオリンズの町がハリケーンで滅茶滅茶にやられ、水浸しの廃墟になってしまったテレビの映像を思い出した。「オズの魔法使い」の映画も思い出す。 今住んでいる木造二階建のコンドミニアムにハリケーンが直撃すれば、風にすくい上げられ、持ち運ばれ、投げ落とされ、家はバラバラに破壊されると思った。それに波打ち際から10メートルしか離れてなく、海面からは人間の背丈一つの高さの所にあるので、高潮に襲われたらひとたまりもないと思った。 私は、阪神大震災の時に一つの教訓を得ていた。断水が1か月近く続いて、トイレや皿洗いに困り、隣の伊丹市の公園の水を汲みに行って苦労した時、尼崎市では被害が大きかったが、淀川ひとつわたって電車で15分、大阪に行けば普通の生活ができたのである。 余震におびえ、水に苦労して八方ふさがりだとつぶやいていた時、後で考えれば、「36計逃げるに如かず」の教え通り、家族全員で大阪のホテルに泊まっていれば、万一余震で家がつぶれても命は助かったのだ。 なるべく早く逃げ出すのが最善の方策だと思った私は、今のコンドミニアムは危険と判断し、一時避難のホテルを娘にネットで探してもらったが、帯に短し、たすきに長しで、予約するところがない。そうこうするうちに、現地マウイの H.I.S の事務所が開く時間になり、助けを求めた。 色々やり取りし、結局ラハイナの老舗ホテルにハリケーンが去るまで、5日間予約してもらった。そのホテルの名は『ラハイナ リゾート ホテル』、この間「ルアウ・ショー」を見た所である。海から

2018年  マウイ島 滞在日記 4

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  ★四日目  (8月19日・日曜日)   ⒔ 海亀           朝、孫が、目の前の海で亀が泳いでいるとカメラを持って出て行った。私も急いで庭に出てプールのわきから崖下の海を見て、亀はどこだと探した。海面に顔を出していないので、岩もあり、甲羅の色とよく似ているので、最初はなかなか見つけられなかったが、それらしきものを見つけて、ビデオを撮った。水面より少し下を泳いでいて、波の具合で時々甲羅が見える。大きな海亀が、眼下を泳いでいるなんて、やはり感動ものだった。               朝食のあと、父親は、マウイで三番目にきれいな海に泳ぎに行こうと孫を誘って出かけて行った。三番目にきれいって、おかしい言い方だなって私は思ったけれど、きっとマウイ島のガイドブックにそう書いてあったのだろう。その三番目にきれいな海はどこなのか、蚊帳の外の私は分からない。二人は帰って来て、きれいな魚と一緒に泳いだと感動している。 彼等のいない間、私は、歩いて三分の「 FARMS 」という店に買い物に行った。その店は「オーガニック」が売り物らしい。それはいいのだけど、そこは肉と魚は一切売ってなく、卵もなく、生ものは果物と野菜だけ。その店でサンドイッチとコーヒーでもとって、昼食を済ませてもよかったのだが、ふと、日本から持ってきたインスタント焼きそばを思い出し、それで昼ご飯を済まそうと思った。ところが、普段、インスタントの焼きそばは食べていなかったので、全くはずした銘柄を買ってきたらしい。空腹を満たすだけといっても、その空腹さえ満たされた気にならないような、まずい代物だった。 午後二時からは、孫たちはハレアカラ山という火山の頂上から、沈みゆく太陽や夜空の星を見に行くツアーに出かけて行った。三千メートル級と聞いて、二人は、日本からダウンジャケットを持って来ていた。私はというと、三千メートルという高さで、富士山を想像し、高山病になるのではないかと思い、参加しないことにしていた。後で聞いてみると、山頂まで観光バスで行くし、苦しいと感じたりはしなかったということだ。孫は、星よりも、雲海に感動したと言って帰って来た。   ★五日目 (8月20日・月曜日)   ⒕  iPhone 又もや今日もどこかの海に泳ぎに行こうと、父親は孫に言った。二人が泳ぎに行く時は、向こうで着替えるのが面倒ならしく、家から水

2018年  マウイ島滞在日記 3

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  ★ 二日目 (8月17日・金曜日)   ⒑ サーフィン  目覚めて、カーテンを開けると、リビングからすぐ目の前に海が見えた。青い空に白い雲は浮かび、ガラス戸を開けると心地よい風が通り抜けて行った。 このコンドミニアムには、天井に付いた大きい羽根の扇風機があるだけで、エアコンの設備はないと娘から聞いた時、どうやってエアコンなしに暮らせるのかと、不安に思った。今心地よい風を肌に感じながら、なるほど、なるほどと頷くのである。エアコンなんて必要ないのだと納得できた。  昨夜は、コンドミニアムから歩いて行ける近くのお弁当屋みたいな店で、父親が三人分のお弁当を買ってきた。今朝は近くの「 FARMERS 」というストアで、朝ご飯を食べようということになった。                私が玄関のなれない鍵を必死で掛けている間に、父親と孫は、先に行ってしまった。私が到着した時には、二人とも注文を済ませていた。遅れて行った私は、何を注文したらいいか分からない。依存心の強い私は、孫が助けてくれるものだと思ってたら、孫は知らん顔である。「何を注文したの」と聞くと「サンドウィッチ」と言うので、カウンターの中に向かって「サンドウィッチ」と言ったら、相手は、何か言葉をベラベラベラと返してきた。何をいっているのか分からなくて、困って孫の方を見ると、中身を選ぶんだと言う。             なるほど、店員の後ろの黒板に、何やら一杯書かれている。私は、急に言われても英語は読めないし、何でも平気で食べられる人間だから、中身も分からず、何でも答えろと思って、メニュー「一」と言った。注文してから二人の店員が料理を作るので、しばらく待たされた。  店は小さい。入った左側に、テーブル二つと椅子が八、九脚置かれている。壁の所には T シャツなど、ちょっとしたお土産品が売られている。テーブルの奥はカウンターになっていて、その向こうでハンバーガーやサンドウィッチやサラダなどを調理している。そのまた奥ではオーガニックと銘打った牛乳や野菜やフルーツが売られている。店の右側には、瓶詰や缶詰やちょっとした調理道具やティッシュやトイレットペーパーなどが売られている。  ここでは、肉や魚が一切売られていないのが、後になって、不便を感じるようになった。  小さい店だけれど、周りに店がないので、私たちのコンドミニアム

2018年 マウイ島 滞在日記 2

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★1日目(後半) (8月16日)   7 カフルイ空港からハレカイへ 一便遅れて三人揃い、他の観光客と乗り合わせてマイクロバスでコンドミニアムに向かった。 最初マイクロバスは街を走っていたが、ちょっと行くと人家の全くない、黄色い土がむき出しの丘の裾を長々と走った。道路だけは舗装され整備されている。だが行きかう車は少ない。そんな所をどんどん走っていくうちに、私はどんな奥地へ連れていかれるのかと不安になって来た。 何故娘はこんな僻地みたいな所のコンドミニアムを選んでくれたのかと恨めしくさえなってくる。 しばらく行けば、左側に海が見えて来て、その素晴らしい景色に驚嘆していたはずだが、私の心は心配で一杯になっていて、何も見えていなかった。 父親と孫は前列の席で何か話している。だいぶ走ったのち、マイクロバスは、各ホテルの前で止まっては、客を下ろして行く。順々に下して、最後に私達だけ3人が残った。私はまた不安になった。    8 コンドミニアム『ハレカイ』           ついに目的地に着いた。荷物を下ろし、事務所に入ると、年配の女性が応対に出て来た。この人がオーナーかなと思ったのだが、オーナーでなく雇われている人らしい。彼女がキーを持って来て、玄関を開けて、中に一緒に入った。 中に一歩入ったとたん、私達三人は「うわー、素晴らしい!」と異口同音に歓声を上げた。               リビングのガラス戸の向こうには、青い海が広がっていた。テラスには、ガラスのテーブルがあり、そこで海を見ながら食事ができそうだ。彼方の水平線には雲で霞んだ島が見える。           リビングは広々としていて、ソファもどっしりしていた。ソファの柄は、淡い色で描かれたヤシの葉のイメージで、南の島を感じさせる。部屋部屋には、ふさわしい南洋調の額が掛けられいる。随所に、マウイを象徴する亀の置物や白い貝殻が飾られていた。 せせこましいマンションで生活していた私達には、全てが豪華に感じられた。 私たちの歓声と、喜びの姿を見て、管理人の女性も顔をほころばせて嬉しそうにしている。 私は、いっぺんに、こんな奥深いところのコンドミニアムを契約した娘を非難していた気持ちを吹っ飛ばせ、さすがは娘だなあ、などと考えている。ネットを一杯見てなかなか決められないでいる娘を、この優柔不断な娘め!と決めつけていた気持ち

2018年 マウイ島 滞在日記 1

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  ★ 一日目 (2018年八月十六日・木曜日) 1 いざ成田へ 孫と私は大きいスーツケースと大きいリュックサックを背負って出発した。私はタクシーを呼び「四谷」から「バスタ新宿」へと、成田空港行きのリムジンバスに乗るために出かけた。 成田行きのバスのチケットを買おうとすると、窓口のおじさんが私の顔を見て、老人割引価格があると言い、一緒に行く人も何歳かと聞くので十九歳と答えると、学生割引があると教えてくれた。おかげで思いがけず二人で六千円のところを四千円で行くことが出来た。 二時間半ほど乗って、成田に着いた。デルタ航空の出発カウンターは四階。バスを降りて、建物に入り、私はそこに立っている航空会社の案内嬢に 「四階はどうやって行けばいいのですか?」と聞いた。 「ここが四階です」と案内嬢は答えた。 私は少し恥ずかしかった。バスは一階に着くものと思っている。田舎者だ。 ロビーは閑散としていた。人の姿もまばらである。よくテレビで見るような、人で溢れた空港ではない。寂しいぐらいだ。夜九時出発という便だから、こんなに寂しいのだろうか。 ともかく、送っていた私のスーツケースを受け取り、前もって頼んでいた W i ― F i の器械を受け取り、出国ロビーに下りて行った。 出国手続きは、機械化、コンピューター化されている。私は孫のやるのを見よう見まねで訳も分からずにやり終えた。   2 飛行機の中で   娘が H ⅠSで購入てくれたチケットは、通路側でなくて、通路側に他人が一人いて、その奥二席が私たちの席となっていた。80歳にもなると、夜中に毎晩二、三回トイレに行く。それが苦になっていた。また、エコノミー症候群というのも、怖いと思っていた。出来れば、機内を歩き回ろうと思っていた。しかし、横に一人他人がいると、そう度々退いてもらうわけにはいかない。気の小さい私はそんなことも苦になった。隣の人は、年の頃三十五、六の O L 風の女性だった。私は、あまり初対面の人に愛想よくない。自分から話しかけたりしない。しかし隣の人はいい人のようだ。私がテレビの操作に困っていると、ひゅっと手を出して画面を押してくれた。「ありがとう、わからなくて」と頭を下げたけれど、そこで話はお終い。大阪のおばちゃん風に、そこでいい気になってべらべらしゃべっては迷惑だと思